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2月26日(火)たぶん晴れ

ここ数年、まともにニュースを見たり読んだりすることを避けていた。

というのも、自律神経がおしまいになってからは、なぜかつらいことがいっそうつらく感じられて、ニュースっていうのは基本的に何かあったときに報道されるものであるからその多くにつらい要素が含まれて、ニュースを見るとその後ずいぶん長い間つらくなってしまっていたからだ。

ニュースはつらい、なんでつらいんだろうと思ってお風呂に入りながら考えてみたのだが、たぶんそれは解決策が提示されないことが1つの原因なのではないか。

ここからは「ニュース」を「なんらかの問題が起きたことについての映像媒体を中心とした報道」という意味で扱うが、コメンテーターの多くは、そのニュースに生じている問題に関しては専門外の人で、どちらかといえば視聴者が感じるであろう感情に対する共感や反応を求められている、ような気がする(最近ろくに見ていないので、印象の話をするしかない)。

で、共感や反応はたしかに視聴者との距離を縮めるという点や、被害者に寄り添うという点で大切だが、報道番組などにおいてほんとうに必要なのは、必要なのはっていうか、正確に言えば、その情報から受けたつらさをわたしがなんとか解消するために必要なのは、それら感情的な寄り添いではなく解決策ではないか、と考えたのだ。

共感や反応があったところで、それは多くの場合「防衛手段」と言えるほどのものにはならないから再び起こる可能性があるし、同様のケースに陥ったときに「つらいねえ」「犯人が許せませんね」「いじめは本当によくないことです」「教育委員会は何をやっているんだ」等とだけ言ってもらえても何もない、たしかに感情的なものは満たされるかもしれないが、感情だって起きた事象に対する解決がなされないうちは、十分に落ち着くことはないのではないだうか。

めちゃくちゃ悲惨な事件が起きたとして、まあそもそもそんなものは起きてほしくないのですが、せめてその報道と同時、もしくは続報的に「なぜそれが起きたのか」「どのように対策ができるのか」を、もっと、きちんと、時間を割いて、知りたいと思う。

ここまで書いてみてわかったけど、気力のない状態のわたしには、「報道」が重たい情報でしかなく、それが毎日流れ続ける理由を見出せていなかったんだと思う。

だってつらいこととか事件が起きてさ、解決策提示されないんですよ、ニュースが知識として蓄えられたときに、模倣の可能性は上がるのに対し自分や他人の身を守る方法に関しては不明なままって、それは、なんなんだ。なんのためにこんなつらい話を聞いているんだろうか、わたしには「こんなことがもう起きませんように」と祈ることしかできませんか?

そういう、自分は何もできないなあと思ってしまうこと、また自分がその立場になったときにどうしたらいいかわからないまま不安だけが増えること、それからわたしの属する社会に、こんなにもつらいことが起きているのだ、今この瞬間もつらい思いをしている人がいるのだということに耐えられなくて、ニュースを極力避けていた。のですが。

今日ある連載の存在を知った。

担当編集者のnoteを読むに、どうやらいわゆる“相模原事件”も、この連載が生まれるきっかけとなったようだ。

わたしは、この連載を読まなければならないと思った。あるいは、時間をかけて読む価値のある内容だと思った。

2016年のその事件の頃、わたしは大学4年生で、「健常者」と「障害者」の間にいた。就活をすべき学年になっても自律神経失調症と診断されたまま服薬を続けていて、こんなにも動けないのに、わたしは「障害者雇用枠」には入らない。はざまで生活に困っている人は、わたし以外にもきっとたくさんいるんだろうな、とぼんやり感じていた。

そんなときにこういう事件が起きて、犯人に共感するという声の存在が恐ろしかった。恐ろしかったし、でも自分が精神障害のくくりに入れられることもあるような症状の経験を経ていなくても、そのように、勝手に、自分と距離のあるように思われる人の、意思を無視した解釈を、絶対にしないと言い切れるか?と聞かれたら、それは、多分、断言できない。

人の悪意が怖かったし、善意ゆえならもっと怖かった。ずっと詳細は調べずにいて、こわい内容のツイキャスがお昼のニュースで流れたらテレビを消した。

で、1年が経って、バニラ・エアに這って登った車椅子の男性のニュースを聞いた。それに関する議論も、いくつかTwitterで読んだ。

そこからまた1年が経って、2018年の7月に地元の図書館で読んだ本に、障害者の当事者運動のことが少し載っていた。

それで興味をもって、上野千鶴子ほか『当事者主権』を借りたけれど、時間をとれずに冒頭だけ読んで、そのまま返してしまった。

それからさらに半年ほどすぎた今日、上記の連載を知った。

WEB上で、読むのがなかなか難しいようなテーマに取り組み、無料で考える時間をとらせてくれるだろう連載が、いま目の前にある。どうやらそれは完結したばかりのようだ。

多分タイミングが来たのだと思う。ちょうど何かゆっくり考えたい、じっくり考えたいと思っていたところだった。

報道できるものには限りがあるから、当然取捨選択がなされる。でも、報道されないものが、存在しないわけではない。だいたいそれは本や人の形をとって、どこかに、たしかに、ある。きっとこの連載は、そんな言及されずにきた部分についても存在を認め、照らしてくれるのではないだろうか。

おそらく読んでいてつらくなることもあるだろう。しかし、幸運なことに、以前より少しは気力も増えている。

今きちんとこの社会に向き合って、その未熟さに苦しんで、たとえ一時的につらくても情報を得続けられる自分に、少しでも近づきたい。

(ていうか今気づいたんですけど、解決策の提示という点に関しては新聞など含む文字媒体のほうがありそうだよね、ニュースが嫌なの、つらい話をいろんな音で「聞く」のが無理なのもあると思うので、文字媒体をまずはしばらく頼ろ〜と思いました)(あとルポとかノンフィクションの分野を読む必要がわたしにはあると思ってて、その話はまた今度します)

03:28 一部追記や表現の変更。

報道することに意味や価値がないとはまったく思っていなくて、報道から得られるものはたくさんある、ただ、そのメリットを得るには時間と考える力がいる。弱っていたときのわたしにそれらは重すぎて、かつ救いがなさすぎた、ということだと思います。

また、わたしは酔うと全人類が幸せであってほしいとのたまう人間なので、わたしの求める救いはかなりでかいのだと予想されます。

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