満ち足りた生活を送る21歳が遺書を残し、インド留学するために初めて海を渡った話
悠々自適の自由な学生生活を送る平凡な大学生だった僕タジマが、何を思ったのかインド留学に飛び出した。初めての海外にもかかわらず、一年間のインドというハードな選択をした理由と留学に行くための最大の壁を越えた話をしたい。
※表紙の写真はタージ・マハールとの初めての対面のときのもの。
僕「大学で英語を学びたい」→ヒンディー語専攻入学
現実は小説よりも奇なり。自分でも何が起こったかよくわからない。
大学受験生のときに英語が特に好きだったことから、大学では語学としての英語や英文学を学びたいと思い、地元の大学の外国語学部の英語専攻を志望していた。
あるとき、「外国語学部であれば英語専攻でなくても英語の勉強はできるのではないか」と思ってしまった。志望していた学部の専攻言語は25言語もあったので、「どうせなら他の言語を専攻とし、英語の他にも武器を持とう」と他の選択肢を模索し始めた。
軸は二つだった。「市場が伸びている、伸びそうな国の言語」かつ「日本で話者が少ない言語」を満たす言語は「ヒンディー語」一択だった。そして無事試験に合格し、外国語学部ヒンディー語専攻の生徒として大学の門をくぐることになる。
ただただ、インドカレーを食べ続けた
ヒンディー語の勉強はあまり楽しくなかった。
デーヴァナーガリーという文字で記述されるヒンディー語を見ているだけで頭がクラクラした。こんな文字(हिन्दी भाषा)である。当時は英語を見るだけで心が安らいだのを覚えている。
一方で、僕は辛い食べ物が大好きだった。『辛くできますか?』というブログを毎日見ては、口内の湿度を高めるのが日課だった。
とりわけインドカレーが大好きで、インド料理屋に行っては「激辛よりも辛くできますか?」と前述のブログの激辛のおっさんをマネて注文していた。たいていは店員のインド人にヒンディー語で「इस से ज्यादा मिर्च दाल सकते हैं?」などと言うと「こいつガチの奴だ・・・」とオプションオーダーが通る。
当時このようなツイートをしていた。
インド料理好きがこうじて、インド料理屋でアルバイトしたり、一週間に8食のインドカレーを食べたり、インド人がやってるスパイス屋で調達したスパイスから激辛インドカレーを自作するほどだった。
ツールである言語を学んで終わっても意味がない
言語学習に対する漠然とした思いがあった。
言語とはただのツールであり、手段でしかない。大学で「語学を学ぶために語学を学ぶ」ことは手段の目的化に他ならない。やがてその思いは、生の文化を感じるために「留学」という道を見出した。
インドで留学となると、当時の目的地は「デリー」か「アグラ」の語学学校だった。デリーはインドの首都であり、アグラはかの「タージ・マハール」を擁する超田舎町である。
周知の通りインドは近年成長が著しく、急速にグローバル化している。自然と英語話者の数も増え、特に都市部においては目を見張るほどだ。そしてデリーはそのような都市である(もちろんデリーにも非英語話者は多くいるが)。
ヒンディー語で話しかけても英語で返答されるような都市で生活するよりは、ヒンディー語しか通じないような場所にいるべきではないかと考えたすえに僕はアグラ校を選択した。
留学への壁とステルスポジティブキャンペーン
インド留学は現地での生活もさることながら、出国前からその厳しさが始まると言われる。それは煩雑なVISAの取得であったり、レスの遅い現地の学校とのやり取りであったり、在日インド大使館のスタッフの謎対応が原因であるが、僕には最愛にして最大の壁があった。
それは、僕のことを非常に大切に育ててくれた実の母である。
海外経験のない僕が一年も外国で過ごすことを非常に心配してくれていた。何より、行き先がインドだったことが大きい。
10000%留学に反対されると分かっていた僕は、約一年におよぶステルスポジティブキャンペーンを開始した。
まずはゴールイメージの設定だ。これはシンプルに「母にインド留学に賛成してもらうこと」である。
次に課題の整理である。反対されるポイントは何なのか。間違いなく「インドは危険」というイメージが母にあることだ。僕は曲がりなりにも大学でインドついて学んでいたのだから母よりも当然インドについて知っていた。(実際、母が感じている以上に危険だということも知っていた。)
さらに課題をブレイクダウンすると、母がインドを危険だと感じていたのはテレビやWebを中心とするメディアからの情報によるものだ。留学計画を画策していた2010年当時、インド関連番組が非常に増えていた。インドでは奇想天外なことが起こる不思議な場所なので、非常にテレビ受けするコンテンツになるからだ。インドの良いところはあまりフィーチャーされないのだ。
加えて、インドに関するポジティブな情報がほとんど入ってこないのも問題だった。これでは一方的にインドの評価は下がっていくばかりだった。
これらの情報をもとに施策を考える。
ウイルスを体内に、遺書を引き出しに、そして満を辞してインドへ
「インドは危険なだけじゃないのかも」と思ってもらうためには、母に気付かれないようにインドの評価を上げなくてはならない。
まず、インドの印象を低下させないようにインド関連番組を見せないようにした。事前に番組欄をチェックし、インドの番組があるときにはできるだけ僕がリビングのテレビを占領して違う番組を見たり、普段しないテレビゲームをしていた。
インドの素晴らしい情報をキュレーション(厳選、編集)して伝えることも怠らなかった。Webで収集したインドの良いところや、大学の教授から聞いた楽しいところを魅力いっぱいに(しかしさりげなく)プレゼンし続けた。
そして僕は母にインド留学を打ち明けた。返答は驚きとくすぶった返答だったが、ここで反対されないことが重要だった。
留学許可に向けてたたみかけるべく次の手を打った。インドが危険である理由の一つに感染病が挙げられるが、これに予防接種で対応した。記憶が定かではないが5種類ほどの予防接種を打ったと思う。
感染症の中で母の最大の懸念は狂犬病だった。これは狂犬病に感染した動物に噛まれることで発症する致死率はほぼ100%の感染症だ。一方で、発症後すぐにワクチンを複数回打つことで致死を免れるのである。驚くべきことに、事前に予防接種を打っていても狂犬病の動物に噛まれたならワクチンを接種しなければならない。この理由から旅慣れている人は狂犬病の予防接種を打たないと言われている。
しかしインドに行けなければ元も子もない。一回1万円もする狂犬病の予防接種を三回にわたって打ち、(実際にはあまり変わらないが)安全感をこれみよがしにアピールした。
お金も時間も情熱もかけたステルス含む説得により、ついに母から許しが出たのだった。
インドではトイレも含めて問題がたくさんある。どこで何が起きるか分からないのだ。それらについてはまた次稿以降でお話したい。
こうしてインド留学に行く上での最大の壁をクリアし、現地の語学学校や在日インド大使館との奮闘を終えて、インド留学が決定する。
留学に行く前日、海外旅行をライフワークとしていた昔の恩師の
旅行では何が起こるか分からない。だからいつも遺書を書いていく。
という言葉を思い出し、家族や身の回りの大切な人に向けた遺書を書いた。僕の勉強机の小さな引き出しにそれを隠すようにしまうと、インドが一気に近く感じた。翌日、インドへ立った。
あとがき
初稿は以上になります。
今後はインドでのとんでもライフや、自分で行かなきゃ一生知ることができなかった生の文化、留学前に地味に苦労したところや、インドの愚痴やインドの愚痴やインドの愚痴を書いていこうかなとぼんやり考えています。
फिर मिलेंगे(ぴる みれーんげー:またね)
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