見出し画像

Dr.本田徹のひとりごと(39)2011.11.7

• 以下の文章は、フリーランスのジャーナリスト佐藤幹夫さんが個人編集するすぐれた思想雑誌「飢餓陣営」#36、2011年夏号「特集・吉本隆明と東北を想う」に掲載された拙文を、佐藤さんの特別のご厚意で、シェアのホームページに転載することをお許しいただいたものです。認知症の地域ケアや発達障碍者の<生>と彼らが直面する課題について、現在、質量ともに、比類なく深く、独創的な調査報告・執筆活動を続けている佐藤さんのお仕事から、みなさんもぜひ学んでいただければと思います。飢餓陣営は周知のように、宮沢賢治の風刺的な一幕童話劇の題となっているものです。雑誌は大手の書店でも扱っていますし、ネット検索で「編集工房飢餓陣営」からも注文できます。

• 私自身にとっては、彼の代表作「自閉症裁判―レッサーパンダ男の『罪と罰』」(洋泉社2005年)を読んだときに受けた感動と衝撃がいまだに鮮烈です。

• 明後日、東ティモールにまた出かけます。今回は、シェアが長年大きなお蔭をこうむり、また2008年日本にお招きした、デビッド・ワーナーさんを東ティモールにお迎えして、シェアのプロジェクト地アイレウを訪問していただいたり、首都ディリで保健教育やChild-to-Childについて、国レベルの講演会やワークショップを開いていただきます。もちろん、以下の文章の主人公、バイロピテ診療所のダン医師との会見や行事も予定されています。それについてはまた報告させてください。(2011年11月3日記)

■ 「飢餓陣営」2011年夏号

 東ティモール日記

  ダン医師聴聞記より : 鷗外の「假面の告白」と結核百年のスティグマ
             シェア=国際保健協力市民の会医師 本田 徹

2010年11月9日 

ダン医師と彼の治療で救われた重症結核患者の少女 ディリ1999年

 熱帯直下の南半球の海に浮かぶ、この緑滴る小さな島への私の最初の訪問は、1999年10月のことだった。それから11年の間に、計10回以上は訪ねたことだろう。東ティモールが1999年の8月末、侵略者インドネシアの頸木から脱するための住民投票で、圧倒的な多数をもって分離独立を選んだ直後から悲劇が起き、小さな島の大半が焦土作戦で燃え尽き、多くの住民が殺され、傷ついた。同年9月、国連決議に基づいて、オーストラリア軍を中心とする多国籍軍が入り、治安を回復。インドネシア軍と彼らに同調する東ティモールの民兵組織やスペイン市民戦争時代のことばを使えば「第五列」は、西ティモール側に引き上げていく。

私が所属するNGOシェアは、騒乱収拾直後の1999年10月に、アジア太平洋資料センター(PARC)の呼びかけに応じる形で、川口みどり助産師と私自身が初めて、この地を踏んだ。それから、医療救援に始まり、徐々に保健教育の活動に軸足を移し、現在はエルメラ県とアイレウ県の2地域で、山村に住む母子や小学校生徒を対象にした保健教育の活動を続けている。  

16世紀初頭以来、東ティモールは400年有余にわたり、ポルトガルの植民地だった。その影響でこの島にはカソリックの信仰が人びとの間で根づいた。イエスや聖母マリアに対する深い信仰という拠り所がなければ、この国の人びとがあらゆる苦難を耐え忍び、25年に及ぶインドネシアの圧政からの独立闘争を勝ちとるスピリットを得られなかったかもしれない。一方で、2002年の独立にあたり、知識人以外話したり書いたりできない、宗主国ポルトガルの言語を公用・教育言語にしたこと、米ドルを新生国家の通貨として選択したこと、またカソリックの戒律やモラルの影響で、たとえば家族計画をおおっぴらには進められないことなど、住民の健康達成や予防活動にとって、プラスとばかり言えない複雑な条件を生み出していることも事実だ。

最初の訪問以来、東ティモールの地を訪れると私が必ず会いにいくのが、首都ディリ市内のバイロピテ診療所(Bairo Pite Clinic)を運営する、「破格の」アメリカ人医師ダンさん(Dr. Dan Murphy)である。この、私が知る限りでは世界で現存するもっともすぐれた臨床医、家庭医は、ある意味でベトナム戦争が生み出し、鍛えた、反骨の人といえるかもしれない。1999年に彼にはじめて会ったとき、私がダン医師から聴取したインタビュー記録から少し拾ってみよう(シェア機関誌「Bon Partage=公正な分配」No.91,1999年 12月号)。
「1970年に私は医者となった。するとすぐ医官としてベトナム戦争に応召するように連邦政府から命令が来た。私は罪のないベトナム人を殺す権利は自分にないし、自分も殺されたくないと思い、良心に基づき徴兵を拒否した。結局、私は数ヶ月牢屋に入れられることになった。私は裁判にかけられ、最終的に、メキシコからの移民労働者や貧困者への医療奉仕をすることを条件に徴兵を免れた。」

しかし、この徴兵忌避は、彼の故郷・中西部のアイオワ州で田舎医者として、住民のために長年献身的に働いてきた彼の父にはつらいことだったという。そのへんの事情を、長くなるが、もう一度彼自身の発言から引いておこう。

「父は私がベトナム戦争への徴兵を忌避し、収監されたことを理解できなかったし、近隣の人びととの関係で耐え難い思いをしてきた。当時、父の世代の人間はベトナム戦争のMorality(倫理性)を問う以前に、国家へのLoyalty(忠誠心)をより重んじていた。私が国家に盾を突く真似をするのが、父には事情や理由はどうあれ、受け入れがたいことだった。しかも、父の住む町からは何人もの若者がベトナム戦争に駆り出されていき、骸になって帰ってきていた。そんな戦死者のいる家族は、長年にわたって私に口ひとつきいてくれようとはしなかった。私自身は良心に恥じずに行ったことでも、つらい結果を招くことがありえるのだ。しかし、父との和解は、私自身が父の仕事を理解し、共感することから進んでいった。一時期父が近隣の地域を往診して回るのに同行させてもらったことがある。父は一つひとつの家の家族全員の病歴を驚くほど克明に記憶していた。私ははじめて、父がどんなに一人ひとりの患者を大切にし、分け隔てなく治療していたかを知り、彼を尊敬するようになったのだ。」
この感動的な話を聞いて、私は、中野重治の「村の家」の主人公・勉次と父親・孫蔵との関係を思い起こしたり、ユージン・スミスのフォトエッセイの名作“Country Doctor”にも思い及んだ。

ダン医師は1980年代初期にはアフリカのモザンビークでも2年ほど医療奉仕活動に従事しているが、当時の南アのアパルトヘイト政権の内政干渉により、隣国モザンビークが内戦状態に突入し、涙を呑んで帰国したという。
ダンを訪問していつも驚くのは、66歳にして日々300人に及ぶ外来患者を精力的に診療し、入院患者を早朝回診してから投薬・検査指示を出し、スタッフを育て、地方にも疫学的な調査などに出かけ、それでいて、新しい医学知識の吸収や研鑽を怠らないことだ。彼のもとにはアメリカやオーストラリアを中心に世界中から、引きも切らず医師、医学生、ジャーナリストらが訪れ、さまざまな質疑・対話を絶やさない。私も末席に連なる、ダン先生の弟子の一人を目指してきた。

今回も彼のクリニックを訪れて、例により外来の始まる前の早朝病棟回診に同行させていただく。結核専用の病室もあり、10名近い患者が入院治療を受けている。いまWHO(世界保健機構)でも大問題になっている、抗結核薬の効かない、多剤耐性結核(MDR-TB)になってしまった若い男性の患者について、胸部レントゲン写真をその場で供覧してくれ、医学生を含め、皆で議論をする。ダンによると、独立以来ドル経済圏に入った東ティモールは性産業(Commercial Sex Industry)が一大ブームとなっており、インドネシアやオーストラリア、中国などの国々から多数の売買春を事とする男女が引き寄せられ、専用の宿(brothels)も雨後の筍のように、ディリ市内に立ち並ぶようになっているという。結果、HIV/エイズの感染者・患者が急増しており、非公式のデータによると妊産婦のHIV陽性率も首都では、タイ並の1%を超える勢いの由。現在サハラ以南アフリカの諸国を苦しめる、エイズと結核のダブルパンチは、用心しないと、コンドームのおおっぴらな使用をよしとしない、この、カソリックの国でも現実のものとなりかねない、とダンは心配する。そして多剤耐性結核はまさに、エイズととともに、あるいは妙な言い方だが、「エイズの力を借りて」、恐ろしい勢いで増えているのである。東ティモールは世界でも冠たる結核蔓延国で、2007年のWHOの統計によると、10万人当たりの罹患率は322人と大変な数である。(日本は18程度、北欧諸国は10以下) 

こんなベッドサイドでの議論の後、話は俄然、私が予想していなかった方向へ急転回した。病棟回診を終え、多数の患者でごった返す待合を抜けて、ダンは多くの医学書が書棚に並んだ診察室に私を引っ張り込むと、「トオルよ、この日本人の医者を知っているか?」と訊ねた。彼が指し示してくれたのは、Lippincott社版の分厚い結核の教科書”Tuberculosis”で、なんとその冒頭のページに、森鷗外の肖像写真と彼についての詳細なライフ・ヒストリー、とくに彼の結核罹患についての病歴が書かれていた。

従来、一般の日本の文学史の本や鷗外関係の年表には、彼の直接死因を尿毒症とか萎縮腎としてあるものが多かった。少なくとも、鷗外好きで学生の頃から彼を比較的よく読んでいた、私自身は、鷗外は尿毒症、つまり慢性腎不全で死んだものと固く信じ込んできた。ちなみに、昭和60年(1985)出版の「新潮日本文学アルバム・森鷗外」の、大正11年(1922)、つまり鷗外がこの世に生きた最後の年(60歳)の項にはこう記載されている。「6月29日、初めて額田晋の診察を受け、萎縮腎、肺結核の進行が認められた。」 やはり、萎縮腎が先になっている。一方、Lippincottの教科書は明快に、鷗外は結核で死んだと言い切る。萎縮腎とされている病態自体が、腎臓結核であった可能性が高いのである。ではなぜ世界的に権威ある結核学の教科書が、巻頭において鷗外を取り上げたのだろうか? 日本の近代が生んだ最高の知識人、文学者、医師としても軍医総監(Surgeon General)まで登りつめた人物が、一生に亘って自身が結核であることを隠し続けた(と執筆者は断定する)という事実に、21世紀の現代につながる、結核のもつ’Stigma’(烙印)の悲劇を読み取っているからだ。

教科書は、鴎外が明治42年(1909)47歳のときに書いた戯曲、「假面」を証左として取り上げる。粗筋を言うと、ある日、杉村茂という有名な医学博士の診療所に山口栞(しおり)という若い男子学生が訪れる。2ヶ月も咳や痰が続いているため診察を受け、すでに痰の検体を提出し、今日はその結果を聞きにきたのだ。先生は学生に気管支炎だと結果を説明するが、たまたまそこへ植木職人の佐吉が、高い足場から誤って転落、腹腔内大出血を起こし、ショック状態で運びこまれてくる。当時の医学では輸血も出来ず、救いようがない。この瀕死の急患への対応に博士が追われている間に、栞は、彼の痰を結核菌染色(Ziehl-Neelsen法)検査した、博士の結果報告書をこっそり読んでしまう。そこには結核菌陽性と明記されていた。絶望して、博士の前を辞去しようとする栞に杉村は自身の、これまで封印されてきた過去を告白する。実は、杉村自身が、若いころ結核を発病していたのだ。1892年10月24日、杉村は自分の血痰を染色し、顕微鏡で観察し、多数の結核菌を認め、肺結核とみずから診断した。治療法のまったくない時代、そのことを家族にも職場にも隠して、自重自忍しながら、これまで働いてきた。結核発症当時、杉村は洋行から帰って間もない頃であった。

杉村をどこまで鷗外自身に比定できるかは、議論の余地があるが、鷗外は明治17年(1884)、22歳でドイツに留学、同20年には、結核菌の発見者コッホの下で学んでいる。1892年は明治25年に当たり、鷗外が明治21年に帰国してから3-4年経ち、本郷に居を構え、盛んに文学、医学の活動を始めるころだ。杉村博士と鷗外の間の結核罹患や留学体験は、時系列的には符号することになる。

「假面」というこの劇のタイトルは、ニーチェ「善悪の彼岸」に由来するもので、医師は学生にこう説明する。「あの中にも假面ということが、度々云ってある。善とは家畜の群のやうな人間と去就を同じうする道に過ぎない。それを破らうとするのは悪だ。善悪は問ふべきではない。家畜の群の凡俗を離れて、意志を強くして、貴族的に、高尚に、寂しい、高い處(ところ)に身を置きたいといふのだ。その高尚な人物は假面を被ってゐる。假面を尊敬せねばならない。」

鴎外は、日本の医学の近代化に尽くし、功績のあった人だが、自身の結核については、医学者としてその感染力や不治の病であることを知り尽くしていたからこそ、ひたすら隠そうとしたらしい。結核のスティグマは、帝国日本の軍医総監すら、必死で秘匿に努めるほど、大きなものだったのだ、と教科書の筆者は言う。これほど合理的で開明的で、封建社会の古い因習や迷信を打破することに、文学、医学活動を通して一生努力精進した人が、こと結核についてだけは、矛盾した行動を取らざるを得なかったことは、彼自身自覚していたことだろう。だからこそ、ニーチェの思想を援用して、自分の被る「假面」に、時代の善悪のモラルを超えた価値を与えたかったのだと思える。

鷗外が結核に対する内心の恐怖とたたかいながら生きた時代から百年余を経た今、このグローバルな感染症に対する有効な薬を得た人類はなお、スティグマを払拭しきれたとは言えない。結核の「伴侶」エイズについてはなおさらである。そのことを深い痛みとともに認識しているからこそ、ダン医師は、東ティモールでの彼の医療活動のかなりの部分を、結核患者の早期発見・治療、住民への予防と啓発に傾注しているのだ。21世紀最初の独立国となったこの南洋の島で、思いもかけず結核患者・森鷗外が百年前に書いた「假面の告白」劇を知り、私は改めて、国際保健と結核対策の困難でチャレンジに満ちた、世紀の歩みを辿ることともなった。 (了)


いいなと思ったら応援しよう!