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小泉八雲の面影

退職して

 この3月末に33年勤めていた会社を辞めた。いわゆる早期退職というやつだ。御多分に洩れず、退職したらゆっくり海外旅行でもしたいなどと思わないでもなかったけれど、いざそうなってみると早期退職という辞め方がそうさせたのか、どうにもそれは身の丈に合っていないような気がして腰が重い。なんだかんだ言っても根が貧乏性なのだろう。
 でもぽっかりと時間が空いてしまったし、退職金で少しぐらいの贅沢はいいだろうと自分を納得させて、2泊3日の予定で山陰に行ってみることにした。なぜ山陰にしたのかというと鳥取・島根に今まで一度も足を踏み入れたことがなかったから。ほとんどこれが理由の全てである。全国47都道府県のうちで通過すらしたことのない最後の県がこの2県だったのだ。
 あと2つでコンプリート達成となるとなんとかしたくなってしまう。コレクター気質が出てしまうのだ。あとは出雲大社には一度行ってみたいなあと以前から思っていたので、思い切って卒業旅行に出掛けてみることにした。

松江にて

 到着したその日は津和野まで足を延ばしてみた。というか島根県が東西に長く津和野は山口県境の町ということが頭に入っておらず、のっけから思いがけず遠出をしてしまうことになってしまったのだ。早朝の飛行機で米子空港に着いたにもかかわらず、津和野を3時間ばかり観て廻って松江に戻ってくるとそれだけで1日が終わってしまった。

 翌日、今回の旅の目玉、出雲大社に出かけることにした。でもその前に午前中は松江を観て廻ろうということで、国宝の松江城を訪れてみた。江戸時代に築城されたままの姿を残す質実な城。松江城を中心としたエリアは武家屋敷が並んでいて景観が維持されている。武家屋敷の黒塀と散りはじめの桜の対比が目を和ませてくれる。

松江城から


 そんな武家屋敷群の一画に小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの旧居宅と記念館があった。
 小泉八雲のことは彼が本名はラフカディオ・ハーンといい明治の頃にアメリカからやってきて、日本名を名乗り松江に住み、幾つかの怪談話を書いたという程度の知識がまあ、あった。小学生の頃、子ども向けの文学全集みたいなので「耳なし芳一」や「ろくろ首」の話ぐらいは読んだ記憶がある。そんな程度である。

小泉八雲記念館

 いまや観光地となっているかつての武家屋敷が彼の家であったことに少し驚きはしたものの、ああ、ここに住んでいたのかという感じで記念館にふらっと入ってみた。せっかく来たのでこれを機会に小泉八雲のことを感じてみよう、と。でも、もともと小泉八雲がこの旅の目的ではなかったし、まあ行き掛けの駄賃みたいなものである。

松江の武家屋敷

八雲は旅人

 漠然と小泉八雲という人は出雲という土地を目指してここにやってきたのだと思っていた。でもどうもそうではないらしい。

 もともと彼はアイルランド人とギリシャ人の母との間にギリシャで生まれ、フランスの学校を出たあとアメリカに渡り、さまざまな職を転々としながら糊口を繋ぎ、ようやく24歳の時に新聞記者としての職を得た。幾つかの新聞社を渡り歩きながら、ジャーナリストとしてアメリカ各地はもとより西インド諸島などにも足を延ばして、各地で記事や紀行文などを執筆している。この間ニューオリンズで開かれた博覧会に出展していた日本のことも記事に書いているが、この頃から日本への興味を高めていったらしい。その後偶然にも出版社の特派員として2ヶ月の予定で日本に行くことになった。日本をはじめとする東洋へ深い関心を寄せていた彼にとって、文字通り渡りに船。時は明治23年、ハーン40歳の時だった。

 ところが、日本に到着後派遣元の出版社と契約のことで揉めてしまい、契約を破棄。途方に暮れた彼を救ってくれたのはニューオリンズで日本を取材した時に出会った、文部省の役人、服部一三という人であった。日本で再会した服部氏はその役職を背景にハーンに島根県松江中学校の英語教師の口を紹介してくれるのだ。ほとんど伝手のない日本で服部氏と再会したということは、なんという幸運な偶然だろうか。

 記念館の年表でここまでの足跡を追ってくると、松江にたどり着くまでの彼はそこ此処でさまざまな人と出会い、その人たちとの縁と自らの好奇心をよりどころとしてさまざまな土地を渡り歩いているように見える。一見行き当たりばったりのようだけど、さまざまな国、人種、文化に分け入っていくなかで何か自分の核となるものを掴もうとしてもがいているようにも見える。今どきの言葉で言うなら「自分探し」とでも言うべきものだろうか。

 ジャーナリスティックな視点から各地で見聞きしたことを記事にする一方で、旅先での思索は小説も生んでいる。ふらふらと彷徨っていただけではないのだ。これはまさに松尾芭蕉、漂泊の詩人ではないか。

 年表を見ているうちにこの一見無防備な、でも何かを手繰り寄せるようにして日本までやってきたハーンのみちゆきというものに心を惹かれた。そこには偶然や選択の数々があったはずだが、紆余曲折の果てにこの松江に辿り着いた八雲の半生の、この時代からしたらとてつもないスケールの数奇さに圧倒されたのだった。日本人の妻を得て子をなし国籍まで取得して日本人になり、2ヶ月のつもりが残りの人生をこの国に捧げてしまうのだから。全く人生には何が待ち受けているのかわからない。移動手段や情報通信が圧倒的に発達した現代であっても、スコットランドの片田舎で土地の伝承を調べ上げて物語を書いて生活している自分はちょっと想像がつかない。

 しかも、この出雲がまた出来過ぎではないかというぐらい、ハーンにうってつけの土地だったような気がする。彼はアイルランドとギリシャというヨーロッパの北と南にルーツを持ち、まだ10代のうちにアメリカに渡っている。自分の出自はどこにあるのか、自分はどこに帰属しているのか、自分は何者であるのか、西洋と東洋の狭間に立って自分のアイデンティティを探し求めていたのではないか。 
 彼はアメリカ時代に混血の黒人と結婚したり、フランス系の混血白人のことを記事にしたりしている。民族的な自分の立ち位置を確認しようとしていたのだろうか。
 また、エジプトやエスキモー、インド、アラビア、ユダヤなど各地に伝わる民族伝承をまとめ「異文学遺聞集」という本も出版している。きっとそこに住む人々の歴史、宗教、習慣、云い伝え、神話、文学などにもともと深い関心があった人なのだ。

 そんな人が神々の国出雲にやってきた。日本で最初に住んだ土地が出雲だったことは全くの偶然だったにせよ、このことは日本という国を理解する上でハーンにとってはこの上もない僥倖だったのだと思う。神話や伝説が数多く残る出雲に住まなければ、日本に帰化するほど日本に惹かれなかったかもしれない。おもに出雲のことを記した「知られぬ日本の面影」は彼の代表的な作品だが、出雲でなければ小泉八雲は生まれなかったのではないか、記念館を巡りながらそんなことを考えた。

 出雲大社はやはり特別な雰囲気を感じることができた。社の背後の八雲山には低く雲が立ち込めていて、なるほどここは雲が出る(いずる)ところなのだと感じ入ることができた。
 帰りの道中では「古事記」を読み、家に帰りついてからは「小泉八雲集」を買ってきてちびちびと読み始めた。行き掛けの駄賃としては結構なお釣りがきたようだ。

出雲大社

焼津にて

 東京に戻ってからはちびちびと小泉八雲を読んでいた。遅々として進まないのはもともと怪談話やファンタジーみたいなものに関心がないタイプなので、これらの作品群にはさほど惹かれなかったというようなことがあったかもしれない。
 そして、彼の数奇な半生の方に興味を抱いていたからか、物語よりもむしろ八雲のものの見方が伺える日本や日本人について書かれた考察や随筆のほうが興味深く読めた。そう言えば戦後、GHQは占領政策を進める上で小泉八雲の日本人論をかなり参考にしたのだそうだ。戦後の時点でもすでに50年近い時間が経っていたと思うのだが、彼の日本人論は戦後すぐのこの時点でまだ有効だったのだ。

 6月のある日ひょんなことから静岡の焼津を訪れることになった。奇遇なことにこの焼津がまた小泉八雲と縁のある町なのだ。焼津といえば日本有数の漁獲高を誇る港町。美味しい魚を食べようと何度か足を運んだことはあるのだが、今回は魚よりもまず八雲の「焼津にて」という一文のことを思い出した。たまたま偶然とはいえそれほど間をおかずに八雲の所縁の地をまたも訪れることになったわけだが、こういう偶然にはやはり何か感応してしまうものだ。
 冒頭にも書いたように、もともと小泉八雲にそこまで強い関心があったわけではない。たまたま訪れた松江で代表的な観光ルートの一つとして旧居宅と記念館に立ち寄ったに過ぎない。山陰から帰ってきてからも熱心に八雲の著作を読んできたわけでもない。なのに、だからこそこの偶然に心惹かれるものがあったのかも知れない。

 八雲は松江から熊本や神戸を経たのち、東大英文科の講師として招かれ東京に転居する。それから亡くなるまでの10年近く、夏を焼津で過ごすようになる。焼津での出来事をいくつか文章にも残しており、この地で過ごす夏は彼にとって印象深くとりわけ楽しい体験だったとことが伺える。
 八雲は水泳が好きだったそうで、泳ぎには相当な自信があったようだ。海水浴をするのに遠浅の海では飽き足らず、急に深くなる海岸が気に入ったというのが焼津で過ごすようになった理由のひとつだという。

 焼津もまた古い伝承の残る土地である。日本武尊(倭建命)が勅命により東国の平定に赴いた際、駿河の国造に騙され危うく討死するところを、野に放った火によって難を逃れたことから、この地を「焼津」と呼ぶようになったのだそうだ。このことは「古事記」に書いてある。
 それにしても小泉八雲はこうした故事にまつわる土地とよほど縁のある人なのだろう。古い伝承の残る土地だから、そこには綿々と続く歴史と伝統が文化として深く根付いていおり、期せずしてそのような文化と触れ合う機会を得るのだ。彼が毎年の夏を焼津で過ごした理由のもうひとつがこの町に残る、歴史と文化だったのではないだろうか。

 焼津にも小泉八雲記念館があった。市立図書館に併設された入場無料の記念館は松江のそれと比べると手作り感満載の素朴な展示だが、八雲の焼津での日々にフォーカスしており、紹介ビデオはなかなかに興味深いものだった。
 とりわけ、八雲が滞在中に定宿にしていた、魚屋の山口乙吉さんとの交流は丹念に紹介してあった。八雲は「乙吉の達磨さん」という随筆を残しているが、焼津と焼津の人たちを愛した八雲を、焼津の人たちもまた今日に至るまで慕っていることがよくわかる。八雲が焼津を毎年訪れた三番目の、そして最も大きな理由が焼津の人たち、にあったのではないだろうか。

 記念館を訪れたのはもう夕方近く。八雲ゆかりの場所を散策したかったが残念ながら今回は叶わず。いずれまた来ることになるだろうなと思いながら夕暮れの焼津を後にした。

焼津小泉八雲記念館

再び焼津にて

 前回の焼津訪問から1ヶ月余り、意外に早く再訪が叶った。というよりも今回は前回の宿題を果たすべく静岡に行く用事に合わせて焼津を訪れたのだ。前回訪れた時に記念館で八雲が定宿にしていた乙吉さんの家の跡や、八雲がよく散歩で訪れていたという焼津神社など所縁の地が紹介されているのを見ており、一度焼津の町をゆっくり散策してみたいと思っていたのだ。

 今回も焼津に着いたのはもう午後3時になっていた。暑さも少し和らいだ夏の土曜日の夕方近く。記念館のある焼津文化会館を起点にまずは焼津神社に向けて歩き出す。焼津神社までは歩いて10分あまり。
 焼津神社の御祭神は件の日本武尊。創建から千六百年を数える古社だそうだ。最近整備し直されたようで、すっきりとした広い境内に社殿が点在している。港町の守り神らしい、開放的な佇まいだ。
 神社を出て、港近くにある八雲が滞在した乙吉さんの家の跡を目指す。この辺りは焼津駅前の繁華街からは少し離れているからか、日本有数の漁港のある町だとは思えないぐらい、静かで長閑な町だ。

焼津神社


 八雲が滞在した明治の頃はもっと閑散とした田舎の漁村だったに違いない。今でも取り立てて何かがあるわけでもない、なんということはないのんびりとした街並みを歩いていると、なぜ遠く日本までやってきてこの土地にそれほどまでに惹かれたのか、この焼津と縁を結ぶことになったのかと思いを馳せてしまう。

 乙吉さんの家があった跡には今は別の民家が建っており、その前に「小泉八雲滞在の家跡」という石碑が立っていた。かつての漁村の名残が感じられるような家並みで、細い路地からは防波堤が見える。かつてはそこが海岸線だったのだろうが、今は埋め立てられていて防波堤の先は港湾施設になっている。実際の海岸線はもっと遠くにあるし浚渫されて大型の船が入港するようになったであろう現在では、泳ぎに出られるような海岸ではない。港湾道路は広くて大型のトラックが行き来している。八雲がいた頃の港の風景とはだいぶ変わってしまったことが窺える。

焼津港近くの路地

 道路を渡って、津波の避難タワーに上がって港を見渡してみた。静岡方面に目をやると高草山が見える。この景色は八雲の頃と変わらないだろう。そしてその向こうには霊峰富士が見えている。そうか、富士山を忘れていた。沖に出て波間に漂いながらでも見える富士山には八雲も心踊ったに違いない。

小泉八雲滞在の家跡

 ここに住む人たちは長い間海と対峙して生活をしてきた。自然への畏怖は篤い信仰と結びついていたはずで、聞けば焼津神社の例大祭は東海一の荒祭りと言われるほど盛大なものなのだそうだ。神話の時代の古い伝承の残る港町でもあり、八雲はかつて出雲で感じていたのと同じように、この土地の海とつながる歴史、風習、信仰といったものに心惹かれていったのだろうか。そして八雲は日本人の精神性と実生活とが結びつくさまをリアルに感じていたのだろうか。焼津という素朴な漁村、心穏やかな人たちとの邂逅はジャーナリスティックな目を持つ異邦人ハーン=八雲であったからこそだったのだと思う。

焼津港と高草山

 出雲を訪れて八雲に出会い、その面影を追って焼津を歩き、図らずもこの数ヶ月八雲のことを考えるともなく考えていた。海を渡ることが今よりも困難な時代に、未知の極東の地を終の住処とした人生の巡り合わせを、ハーン自身はどう受け止めていたのだろうか。旅の中に置かれた人生に思いを馳せてきた。そのことが書き留められているかわからないけれども、八雲が感じた日本をもう少しちびちびと読んでみようと思う。でもやっぱり怪談話はもういいかなあ・・・。

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