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世界の終わりがそこで見てるとして~「キャロルの終末」【アニメ感想】

世界の終わりがそこで見てるよと
紅茶飲み干して君は静かに待つ

THEE MICHELLE GUN ELEPHANT「世界の終わり」

THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのデビュー曲でチバユウスケはこんな言葉を刻んでいた。諦念と共にクールな悟りのイメージが浮かぶ一節。終末を想像しこの景色が書けるチバの凄みと、"君"のカッコ良さにいつもグッとくる。

とはいえ今まで"君"の人物像をいまいちイメージしきれていなかった。しかし遂にNetflixで昨年末に公開された全10話のアニメ「キャロルの終末」の中にその気配を感じ取った。謎の惑星が衝突寸前、滅亡まであと7ヶ月が迫った地球を舞台に、淡々と過ごす地味な独身中年女性・キャロルの日々が描かれる物語だ。世界の終わりを待ち焦がれたり、思い出したよに笑い出すことはしないが、キャロルは終末を静かに待つ人間の姿として現実味があった。


享楽へ向かえない

滅亡が迫る世界で多くの人々は社会規範から解き放たれ、やりたいことをやり続けている。キャロルの父と母は屋内外問わずに全裸で過ごし、介護士との"3人で恋愛"を楽しむなどタガが外れっぱなしで残りの時間を生きている。

人の精神を縛っているはこの社会で生きることが前提だが、地球滅亡のような死が逃れられない事態となっては法は無に帰す。制約を失ってしまえば、人の心は根源的な喜びである享楽の方向へと驀進するわけで、キャロルの家族含めパーティに明け暮れる人々はそうした原理に忠実とも言える。

一方、キャロルはそうした享楽に身を委ねない。滅亡が決まり仕事がなくなっても、やりたいことがなく過ごし方を迷っている。"享楽"っぽく行きずりの男と関係を持ってはみたが、そこで芽生えそうな劇的な関係性に拒否感を抱き、やはりどうすればいいか分からず日々を持て余してしまう。強固すぎる超自我ゆえか、などとそのパーソナリティを考察しようと思えば出来るだろうが、どんな状況であっても規範から外れられないという人は実際のところ結構多いのではないか。少なくとも私はキャロルを他人事には思えない。

そんな中でキャロルが訪れたのは、何をやっているかは分からないがとにかくずっと気晴らしとして数十人の人々が仕事をしている会社。そこにキャロルは居場所を見つけ、日中はずっと仕事する。たとえそれが世界に影響を及ぼさず、自分にとっても刺激的ではない作業であれ、キャロルにとっては理想的な規範になり得る。法は心を縛るだけでなく解くこともあるのだ。


普段通りに生きること

そしてキャロルは周囲にも変化を及ぼす。死の不安から逃避するために閉塞的な意志で仕事に打ち込む同僚が多い中で、キャロルは人付き合いのやり方を変えはしない。気が合いそうなら話しかけるし、人の名前を覚えて話しかけたりする。終末が迫る世界で閉じこもろうとする人々にとって、キャロルの"普段通り"は、作中の言葉でいう所の情緒的愛着を形成していくのだ。

全ての常識がリセットされたかのような地球上でも、キャロルの真っ当なコミュニケーションは温かいものを生み出していく。そしてそれは自身にも変化を及ぼす。苦手だった子供に内面を打ち明けるまでになり、社交的な場を自ら設けるようにもなる。たとえ享楽に身を委ねられなくとも、終末世界を優しく生き抜くことができるかもしれない。そんな希望が本作には宿る。


第9話では突如として世界観ががらりと変わる。私はここで描かれるのはキャロルの精神世界の深層、言うなれば夢の発露に思えた。第1話でキャロルが嘘として発した"サーフィン"のモチーフが出現し、「最高の波」を求めるサーファーとしてキャロルを動かす。そしてこの夢の終着点もまた"普段通り"、そこにあるものを見つめながら閉じていく。実に安定した心模様だ。

最終話は意外な視点でこの物語が振り返られていく。そしてこの回を経て我々は強く痛感する。どんな世界でもその人として生きることの気高さや、思いがけず愛着が沸いてしまう人間の可能性のことを。はっきりとギスギスした空気が流れ続けているこの世界において、過剰な不安感や絶望に苛まれている人たちにこそこの作品は届いて欲しい。世界の終わりがそこで見てるとして、だからこそ貴方の"普段通り"に意味があるとそっと伝えてくれる。



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