アジカン精神分析的レビュー『マジックディスク』/語り直しと混ざり合い
6thアルバム『マジックディスク』(2010.6.23)
前作から1年7ヶ月ぶりのアルバム。リリース当時の音楽シーンはYouTubeが興隆し、Soundcloudなど新たなプラットフォームが台頭、定額音楽配信サービスの上陸も予感される中で、"CD"というメディアそのものを見つめたようなアートフォームで『マジックディスク』は作られた。8面に及ぶ巨大なジャケット、AR機能を搭載した円盤など、様々な試みによってCDというメディアの限界、そして終焉への眼差しを向けるようにして生まれた作品だ。
サウンドはホーン、ストリングス、シンセサイザーなどこれまでのアジカンにはなかった音色が目立ち、ポップかつ多彩な楽曲を展開。これは前作『サーフ ブンガク カマクラ』から引き続き、後藤正文(Vo/Gt)のデモを基に作られた点が大きく影響している。デスクトップ上で作り込まれたアレンジを再現するような形で進んだ制作は『サーフ~』で得た開放感とは全く異なる緻密かつ丁寧なものだ。この作品に刻まれた精神について紐解いていきたい。
ゼロ年代を語り直す
1曲目「新世紀のラブソング」はブレイクビートと後藤のポエトリーリーディング的な歌唱など様々な面で新たなアジカンを提示する1曲だ。後藤は"言葉の情報量"の面で他の歌唱を凌駕するラップに強い関心を示し、この楽曲のボーカルを練り上げた。そして多くのHip Hopのアーティストが自身の出自や存在をリリックで示すことに倣って後藤もこの楽曲に自身の半生を刻む。
セカンドフライを捕れなかった日のこと、ビルに飛行機が突っ込んだ日のこと、"君"との過去。これまでの楽曲で心象風景として抽象的に描かれてきた出来事が、独白のように綴られていく「新世紀のラブソング」。『サーフ~』で虚実混ざった過去の風景を客観的に描いた経験の先で、自身のパーソナルな過去を"詩"へと結実させ、2010年以降の世界へ愛と祈りを捧ぐ曲だ。
客観的な物語を指すストーリーとは異なり、語り手が主人公となる主観的な物語をナラティブと呼ぶ。当人が抱える苦しみに影響されたナラティブは当人をその"苦しい物語"に従属させてしまう。精神医療の分野ではこのようなナラティブを対話を通じて見方を変え、"オルタナティブな物語"を生み出す生み出すナラティブ・アプローチという治療がある。後藤が「新世紀~」で行った、ゼロ年代の語り直しはどこかこのアプローチに通じる。初期作品を生んだ内省的な日々を具体的な出来事の連続として語り直すことで現実の地平に引き戻し、その延長上で新たに歩み始める日々へと思いを馳せていく。
このアプローチは他の楽曲にも及んでいる。「さよならロストジェネレイション」は自分たちの生きた時代にあった閉塞感を物悲しく書き連ねた上でそれを打ち破り、外へと向かっていくことを決意する1曲だ。そして終盤にある「イエス」では、これまでのアジカンを連想させるワードを散りばめながら、ある種の強引さをもって"新たなアジカン"を生み出そうとすらする。
『ワールド ワールド ワールド』までで"世界と自分"の関係性について描き切り、『サーフ~』で取り戻したバンドとしての肉体性を一旦置き去りにしてまで未開の表現へと向かおうとしたアジカン。この変化の主導者となった後藤は何を想っていたのか。次項ではその点を掘り下げていきたい。
1人でいること
『マジックディスク』は、後藤のソロアルバム的な趣向すら漂う。長期間のセッションやシンプルな作業を経て、彼のエゴ=自我は根源的な表現欲求を募らせ高い強度を持つ楽曲への昇華を望み、1人の表現者として黙々と作業へと向かった。バンドでありながら1人でもあろうとした時期と言える。
精神発達の面を考えれば、”1人でいること"の体験は必要なことだ。小児科医で精神科医のウィニコットが提唱した「ひとりでいられる能力」というものがある。幼少期は絶対的な安心を感じる対象(たとえば母親であるとか)が離れてしまう恐怖を越え、いつしかその安心を心的現実の中に内在化することで、ひとりでいることに慣れていく。そうなれば、母親が傍にいる時においても心的には"ひとり"という状態を確立でき、情緒発達が育まれていく。
やや強引な解釈かもしれないが、後藤にとってはアジカンは安心できる場所だったはずだ。バンドとして決定的な前作と前前作を経てアジカンという場所が後藤の中に内在化したからこそ、後藤はひとりでいることを選び取ることができたのだろう。バンドの位置づけを変えることを恐れず、異なる表現技法へと踏み出した大きな転機。これを経て新たなアジカンは生まれた。
しかし同時にバンドを内在化しすぎたゆえの摩擦も生まれていく。そもそも固有の精神を持つバラバラの人物が集まってアジカンという人格は形成されている。メンバー1人が"ひとり"でいようとすることの難しさもあるのだ。『マジックディスク』にあるポップなテイストの裏にあるどこか孤独な質感はこうした後藤と喜多、山田、伊地知の関係性変化の影響もあるだろう。
終わりゆくもの、巡りゆくもの
extra trackとして収められたヒット曲「ソラニン」もそうだが、『サーフ~』に続きどこかノスタルジアを感じる曲が多いアルバムでもある。戻れない過去と、終わりゆく今の板挟みになる切なさが全編に通奏している。
『マジックディスク』に一貫するのは、"終わること"を歌う言葉たちだ。万物は諸行無常であり、同じ場所に留まらない。変わっていくこと、離れてしまうことを歌った楽曲が多いことが特徴で、"死"の予感も常に漂っている。
精神分析において"死の欲動"は人の精神を紐解く上で重要だ。フロイトは本能的なものであると喩え、ラカンは"かつてあった享楽"に向かうための手段として捉えている。逃れられない死は常にそこにあり、かつてあった享楽をこの手に取り戻すことはできない。その事実を受容できる段階へとアジカンが足を進めたからこそ、こうして楽曲の中で"死"をフラットに扱うことができるようになったのだ。こうした態度は常に"今ここ"に目を向けていた『ワールド~』までの作品には少なく、重要な成熟を遂げたと言えるだろう。
死を見つめることで、生を抱きしめるようにもなる。「架空生物のブルース」に込められたのは、どれほど愛し合っても1つの生物にはなれない人間の悲しさだ。しかし嘆きではない。別々であり、永遠に共にはいれないという現実がその愛を強靭にしていくはずだという優しく切実な悲しみである。
そして現在、過去、未来をも関係なく循環し合うことを願う歌の数々。ただ個と個が繋がることを歌ってきたアジカンが、その繋がりが網目のように広がり、時空を超えて連なっていくという人の営みを歌う地点へと辿り着いたのだ。これもまた、"死の欲動"の存在と真摯に向き合った先にある境地だ。
そうして限りなく広がった"繋がり"は、最終的に本編ラストナンバー「橙」で《混ざり合って》終わる。自分、バンド、世界、時代、その全てが観念として混ざり合い、巡り合う。そんな壮大なイメージを湛えた『マジックディスク』は、間違いなくアジカンをネクストステージへと押し上げた1作だ。
逃れられぬ終焉とも向き合ったからこそ、バンドとして新たな表現を求め上昇志向を刻んだ『マジックディスク』。しかし後藤がアジカンに求めるものと、喜多、山田、伊地知が織り成すアジカン像の乖離は広がり、バンドは大きな危機を迎えていく。そこからどのようにしてアジカンは息を吹き返したのか。バンドの運命を分けた2011年、そして2012年への歩みはまた次回。
次回レビュー⇒7thアルバム『ランドマーク』(9月中旬更新予定)
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