カタルシスを拒む営み~宮藤官九郎「季節のない街」
Disney+でドラマ「季節のない街」を観た。山本周五郎の同名小説を宮藤官九郎の脚本と監督で映像化したもの。13年前の"ナニ"と呼ばれる災害によって住む場所を失い、今なお仮設住宅に住み続ける人々の姿を描いた作品だ。
本作は被災地を舞台とした作品という点で、宮藤官九郎の代表作「あまちゃん」(2013)を思い出さざるを得ないわけだが、「あまちゃん」が真っ直ぐに喪失からの回復を描く祈りの作品だったとするならば「季節のない街」はそこにただ漂っている"暮らし"を描く、決して祈ることをしない作品だ。
被災地を"可哀想に"描かないという点は「あまちゃん」と変わらない。しかし「季節のない街」の劇中ではどんな災害が起きたかに触れられることはなく、誰しもが"ナニ"という言葉にそれを置き換えている。忘れられぬ記憶であるはずなのに、そこに目を向けることはない。当事者以外は"ナニ"と名前をつけることで過去の出来事としてケリをつけようとする。当事者たちも苦しさを対象化するために"ナニ"という言葉に辿り着いていように見える。痕跡はある、しかし決して前景化することのない世界が本作には描かれる。
ここにいて何も変わらないということを分かりつつも、どこにも行けないし、どこにも行かない。愚かに見えるようなこと何度も何度も繰り返してしまう。自らの意思で諦めているのか、外的要因によって諦めさせられているのかも混ぜこぜになっている。そんな人々の暮らしを主人公であり仮設住宅の新入居者である半助(池松壮亮)の視点から覗き見るのが本作だ。
別々の戸建てではあるものの、仮設住宅のコミュニティはゆるやかだが確かな繋がりを持つ。"仮設"と名付けたのは外部の都合であり、当事者たちはそこにまぎれもなく本物の暮らしを根付かせているのだ。絶望も希望もない、ただ続く生活だとして、それはこちらの視点でしかない。"こうするのが正しい"、"こういう考え方が最先端"などと語ることすら傲慢であるということ。寄り添いやケアの目線とはそもそも自分本意ではないか。しばし考える。
コメディを基調としてはいるが、特に後半はかなり苦しい展開も続く。しかしそれでも、分かりやすい解決やカタルシスを徹底的に拒んだ上で"最高"の結末へと向かっていく営みのエネルギーにのけぞった。教訓などない。ただそこには命と生きている人がいるだけ。それが全て。その真実を理解しようとすることからしか寄り添いやケアは生まれない。それだけは間違いない。
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