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超幻想の果て、令和ロマン/『M-1グランプリ2024』

お笑いに取り憑かれた悪魔がお笑いの力で天使へと舞い還っていく。そんな神話のような物語すら見えた夜。M-1グランプリ2024の話がしたい。

トップバッターで令和ロマンが登場することが決まった時に芽生えた運命的畏怖とも呼ぶべき感情は今まで見てきたM-1の何とも異なるものだった。そしてあの大立ち振る舞い。生まれてしまった荒地の上で巻き起こったのは、昨年のどこか停滞したムードとは程遠い、何としてでもあの憎き令和ロマンを打ち崩すのだ、という闘志に満ちた凄まじい高め合いだった。

ラスト3組の流れもこれ以上ないだろう。真空ジェシカは漫才頂上決戦の舞台になぜかサイコスリラーを密輸し、爆笑と恐怖を綯い交ぜにする。そんな混沌の先に、令和ロマンが磨き続けた漫才コントが真っ直ぐに炸裂。2組へのカウンターに見えたピュアネスの塊・バッテリィズさえも敵わなかったM-1グランプリで2連覇を果たすための気迫。令和ロマンはやりやがったのだ。

この日、繰り広げられたM-1は振り返ってみると恐ろしいほどに令和ロマン、ひいては高比良くるまが思い描いていた世界、そしてM-1側からくるまに求めていた世界そのもののように思える。ここから書くことは明らかに大袈裟で劇的すぎる、ただの1ファンの戯言だ。エモーショナルにお笑いについて書くことへの冷ややかな目線も分かっているつもりだ。それでも書き残したいことがある。ご興味ある方は是非。


空洞が生んだ怪物

このM-1は令和ロマンのもの、もはや高比良くるまの主宰イベント、そうまで思ってしまうのは10月に出版された彼の著書『漫才過剰考察』を読んだことも大きい。凡百な漫才批評や表面的なお笑い分析の何もかもが蹴散らされる脅威の評論書であり、彼の思考過程を暴露していく内容を兼ね備えた、ある種"令和ロマンが何をもってM-1で戦ったか?"のネタバレ本でもある。

これまでのM-1グランプリを徹底的に分析する前半、寄席という切り口で東西南北のお笑い風土を探究し"世界"への道筋を示す後半と、その鋭さに唸りながら読んでしまうのだが、彼がなぜここまでM-1やお笑いを探究するのかに至ったという理由にこそ強く惹かれてしまう。それは試し読み公開されている"これまで"と題された前書きに彼の来歴とともに書かれている。


高比良は常に神様や運命に導かれているという確信のもとに動いており、Dos MonosのTaiTanとのポッドキャスト内でも”天啓“への信心が語られていた。また本著終盤の粗品との対談でも「自分は吉本興業100年の集大成」「NSCがあっての自分」と才能や技量への言及は一切ない。あくまで外縁に主体があり、自分自身の内面を語ることをしないのだ。


”全てに流されて“、“確固たるものを持たず”生きてきたという感覚。ルーツや影響源の希薄な幼少期。そんな中で以下のインタビューで語られているように、複雑な家庭環境や来たる学校生活への不安への防衛策として観続けていたバラエティ番組が彼をお笑いの世界へ導いた。常に外因や消去法で選ばれた分岐の先でM-1グランプリ2連覇を果たしたのだ。


これは自分自身の美学をM-1にぶつけるのでなく、M-1という競技の場に自分自身を自然に適合できたことを意味するように思う。自己像が曖昧だからこそ、どんな形にも変容し、どんな風にも振る舞える。自分の意志ではなく運命だからこそ、M-1で何をやりたいかではなくM-1が何を望んでいるかを優先する。ノーアイデンティティこそが彼の強みなのだ。


そして彼の抱える根無草的な感覚が私を含め彼と同じ30代前後の人々において普遍的だという点も無意識的な追い風になったように思う。経済状況が閉塞的になる2000年代〜2010年代に思春期/青年期を過ごし、20代後半はコロナ禍に直面。“失われた30年”である平成に身を置き続けた、どこか空っぽな感覚が令和ロマンと我々を結びつけている。


そしてその心の空洞を埋めるように、エンタメのエネルギーは年々増しており、お笑いは特に顕著に思う。競技として熱狂を巻き起こすM-1はそもそも点数化されなかったはずの演芸に点数を与え競わせる、無から生まれた有によるバトルなのだ。無意味で”空っぽ“な面白さが重要なのだとすれば、そもそも空っぽで何でも含有できる存在が強いのは当然だろう。

令和ロマンは言うなれば平成の空洞が生んだ怪物なのかもしれない。ノーアイデンティティのまま平成を駆け抜け、時代の停滞と連動するようにブームを起こして定着したお笑いの世界で、適合によって令和にロマンを手にしていく。2001年、21世紀の幕開けから始まったM-1グランプリが彼らの手中に収まることは時代の必然だったように思えてしまうのだ。



消してリライトすること

ひたすら競技化の一途をたどるM-1グランプリ。価値を自覚しつつ、どこかでそのゲーム性に雁字搦めな世界からの解放をM-1側が望んでいるように思える昨今。だからこそM-1側が令和ロマンの暗躍を望んでいたようにも見えるのだ。そのヒントは毎年恒例の本大会のPV、そのテーマソングがASIAN KUNG-FU GENERATIONの「リライト」だった点にある。



軋んだ想いを吐き出したいのは
存在の証明が他にないから
掴んだはずの僕の未来は
「尊厳」と「自由」で矛盾してるよ

歪んだ残像を消し去りたいのは
自分の限界をそこに見るから
自意識過剰な僕の窓には
去年のカレンダー 日付けがないよ

ASIAN KUNG-FU GENRATION「リライト」より

「リライト」は著作権、いわば創作物による存在証明について叫ぶ曲だ。冒頭から根無草な自分たちを形容しつつ、王者となりながらもフラストレーションを抱える現状を吐き出すイメージが重なる。彼らは去年の優勝に納得していない。M-1が盛り上がらなかった過去の後悔に囚われるのだ。無我の境地ゆえにM-1の為に存在しようとする彼らだけの後悔だ。


消してリライトして
くだらない超幻想
忘られぬ存在感を

起死回生
リライトして
意味のない想像も君を成す原動力
全身全霊をくれよ

ASIAN KUNG-FU GENRATION「リライト」より

だからこそ過去を書き直そう=rewriteしようとするのだ。絶対にM-1を盛り上げ、《くだらない超幻想》が《忘られぬ存在感》を放つような、無意味で空っぽなお笑いを《起死回生》させること。競技やゲームではない、ただ笑いを生む《意味のない想像》が《原動力》となる漫才を至上のものにすること。それがM-1側から令和ロマンに任された使命だ。


重要なのはこれが令和ロマン自身の優勝を願っているわけではないという点だ。くるまが抱えた命題はM-1そのものの爆発である。そしてそれは見るに明らかなレベルで達成される。自らがトップに出て作り出した他コンビへの逆境、個性溢れる漫才の躍如、バッテリィズやエバースといったシンプルだがクリティカルなしゃべくり漫才の高得点。文句なしだ。


芽生えてた感情切って泣いて
所詮ただ凡庸知って泣いて

腐った心を
薄汚い嘘を
消してリライトして
くだらない超幻想
忘られぬ存在感を

ASIAN KUNG-FU GENRATION「リライト」より

その末、「リライト」は遂に令和ロマンへ向けたテーマソングへと変貌していく。ルーツは根無草、頻繁にズルをして勝ち上がってきた過去、ノーアイデンティティである現実、、ラストサビに差し掛かるブリッジの歌詞によって「漫才過剰考察」でも語られた空洞が浮かび上がり、そしてそれらを《消してリライト》する。自分自身としてM-1へと立ち向かう。


起死回生
リライトして
意味のない想像も君を成す原動力
全身全霊をくれよ

ASIAN KUNG-FU GENRATION「リライト」より

あとは言うまでもないだろう。《全身全霊をくれよ》という問いかけに相応しいあの戦国時代の大立ち回り。結果を待つ晴々とした表情と、結果が出てのさらに晴々とした表情。自らを明確なヴィランに仕立て、M-1のために悪魔であり続けた高比良くるまは憑き物が落ちたように瑞々しい天使の顔つきで優勝を噛み締めていた。天上世界に昇っていくようだった。

アジカンもまたゼロ年代の抱えた空洞とともに躍進し、自らの存在証明を彷徨いながら歌ってきたバンドだ。何にもなれなさこそを自分たちらしさに変換して戦ってきたアジカンだからこそ、令和ロマンのこの2連覇の予感として響き渡ったと言える。この曲しかありえなかったのだ。

まるで陰謀論かのような着地点になってしまったが、全くそういうつもりはない。このできすぎたストーリーはヤラセと言うほうが不自然である。令和ロマンの偉業を前に自らに芽生えた神秘的な心象を書き表さないわけにはいかず、このようなやや考察めいた内容の感想に至ってしまった。

令和ロマンは間違いなくゲームチェンジャーだ。松本人志がいようがいまいが優勝するということがその事実を強固なものにする。ルールをひっくり返し、無邪気で元も子もないお笑いがもう1度始まる予感がする。そして同世代にこんな面白い人間がいることをリアルタイムで実感できる喜びも大きい。失われた30年といいつつ、勝手に失ったことにするなとも思っていた平成の日々が、令和ロマンに結実していると思えばこれ以上ないことだ。まだまだワクワクできる。今がずっと続けばいいのに〜!と思える漫才をこれからも。


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