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アジカン精神分析的レビュー『ランドマーク』/グリーフケアとしてバンドミュージック

今年メジャーデビュー20周年を迎えるASIAN KUNG-FU GENERATION。その作品史を精神分析的視点から紐解いていく、勝手なアニバーサリー記事シリーズです。

7thアルバム『ランドマーク』(2012.09.12)

前作『マジックディスク』を携えた半年間に及ぶツアーの中、アジカンは解散目前だった。『マジックディスク』を中心となって作った後藤正文(Vo/Gt)が他メンバーに要求するものが変化し、後藤と山田貴洋(Ba)の間で音楽的なズレが生じたことが決定打となり、このツアーを終えた時点での解散を後藤は考えるに至ったという。しかしこのツアーは2011年3月11日に起きた東日本大震災で数公演を残して中断、そのまま開催されることはなかった。

後藤:家に一人でいるだけだと参ってたなというのはありますけどね。それでスタジオに来てメンバーと“あれどうなの? これどうなの?”とか話したりもしたしね。後はそういうのを多少なりともユーモア交えて笑えたりするっていう現場がないと……俺としてはキツかった。

Skream!2012年9月号より

余震の続くスタジオに集まり、会話の延長のように音合わせが始まり、アジカンは解散することはなかった。メンバー全員が顔を突き合わせたセッションによって多くの楽曲が生まれ、それがメンバー全員が作曲にクレジットされる7thアルバム『ランドマーク』へと繋がった。バンドとしてのアジカンを再生させるかのようにして作り上げられた本作。結果的にバンドの運命そのものも変えることとなった震災をどう捉え何を歌うことにしたのだろうか。



言葉遊びから始めよう

「意味」のようなものが求められる傾向というのに何年か前から辟易としている自分がいました。(中略) 俺の作っているロックミュージックは踊るためのものでもあるので、まあまあ意味とか置いといて、悲しい歌でも踊ろうよ、って気分をいつも持っているんですね。だから、なんとなく、震災前はシュールな言葉使いで「意味」とかを問う風潮をぶっ飛ばそうかなぁなんて、そういう曲を一杯書いてみようかなんて構想を練っていました。

2013.01.10 ゴッチの日記より

アルバムは震災以前に作られていた「All right part.2」から始まる。この楽曲は歌詞の行の頭があいうえお作文になっており、サウンドも開けたロックンロールで楽しげなムードが漂っている。そしてアルバムはここからしばらく言葉遊びが続く。まるで日本語ではないかのような語感で突き進むハードな「N2」、美しいメロディに数え歌を託した「1.2.3.4.5.6 Baby」、不穏なトライバルビートにアルファベットの羅列が踊る「AとZ」。大きなコンセプトは設けられていないアルバムとのことだが、この並びは意図的だろう。

勿論、言葉遊びの隙間にはメッセージが忍ばされている。言葉遊びであると同時に、時代への皮肉が多く含まれているのが『ランドマーク』の歌詞の特徴と言える。「N2」は"NO NUKES"と"U2"の合わせ言葉であるし、「AとZ」には"粒子"や"TPP"といった時勢を象徴する単語もある。セッションで生み出された開放的かつシンプルなサウンドと軽妙洒脱なワードセンスに対して、こうしたアプローチをぶつけるのは珍しいように思う。同時期に強い言葉でメッセージソングを綴っていたアーティストとはやや異なる在り方だ。

直接的な表現はそこまで好きじゃなくて。やっぱり比喩にしたいし、シュールレアリスムに近づけたいんですよね。何言ってるか分からないけど、よくよく読み取ろうと思って踏み込んでいくと“あ、結構辛辣なことを歌ってるな”みたいな歌詞のほうが好きで。それでも“やっぱりちょっと書かなきゃな”っていう気持ちもあって。そのバランスをすごく気にしましたね、今回は。

2012.08.20 OKmusicインタビューより

こうした作風は『サーフ~』にもあった"ユーモア"が新たな作用をもたらして生まれたと考えられる。ユーモアはフロイトが述べた防衛機制(受け入れがたい状況や苦痛を軽減するための無意識的な心理の動き)の1種である。直面している葛藤に対して、その皮肉な側面を強調することによって対処するのがユーモアの役割だ。目の前に苦しみを笑ってやることで、ひとまずは暗い気分を弛緩させる。そこからでないと、始められない。『ランドマーク』が言葉遊びから始まるのには、そんな重要な意味合いが込められていそうだ。




悲嘆のプロセスを越えて

言葉遊びを終えると言葉はより時代へと向かっていく。『マジックディスク』では時代とともに終焉や別れを歌っていたが、本作では静かに"今"を暴き出す。「大洋航路」「バイシクルレース」といったなけなしの希望に目を凝らす楽曲もあるが、目立つのは皮肉と怒りが前景化した楽曲である。アジカン印のギターロックに痛烈な政権批判を盛り込んだ「それでは、また明日」、四つ打ちのロックサウンドに投票への想いをぶつける「1980」、現実を鋭く射抜く「マシンガンと形容詞」。アルバム中盤は特にその色が濃い。

後藤:俺たちは幸か不幸か“目があてられないから逃げよう”って言えなくなっちゃった。逃げ切れないことがわかったから。だから逆に何歩も巻き戻して、めんどくさくって歌ってこなかったことを歌わなくちゃいけないんだな、いよいよっていうのは実感としてありますけどね。(中略)ちゃんとこの時代に歌われるべき言葉をもっと探したいなと思う。

Skream!9月号インタビューより

震災との距離感は人それぞれだ。アジカンにとって被災地は例えばライブ会場などその表現を届ける場所として存在していたはずである。そこに突如として降りかかった災害は彼らにとって、大きな喪失のイメージをもって影響を与えたはずだ。人は喪失体験に直面した時、”悲嘆のプロセス"を辿るとされる。①ショックを受け心が麻痺する段階 ②故人を求める切望と悲しみの段階 ③強い怒りと絶望に満ちる混乱の段階 ④回復の段階。この4つのステップをアジカンは『ランドマーク』の制作過程で踏んでいると考えられる。

アルバムには収録されていない「ひかり」「夜を越えて」といった同時期の楽曲には震災にまつわる具体的な描写や戸惑いが刻まれ、これはまさに①と②に値するだろう。そして『ランドマーク』の歌詞に向き合うタームにおいては③の段階が強調されていたように思う。セッションで出来上がったオケから、半年以上時間をおいて後藤は作詞に取り掛かったことも影響している。震災に付随した様々な問題が露わになる内にその語調も変わったのだ。

最近、コーラスを沢山重ねたいという欲求が高いのですが、それは、なんとなく、そうすることで人間味を感じる度合いが上がるように思うからです。温かみ、体温、とでも言いますか。俺は音楽からそういうものを感じたい。そういう場合、人の声の機能って凄いんです。問答無用に人間というか。そのものですからね。

『ランドマーク』全曲解説 「バイシクルレース」より

シリアスな内容であるが、それを中和しているのが上記の解説にある"人の声"のコーラスだろう。後藤が1人でコーラスを重ねた『マジックディスク』に対し、メンバーの声を重ねることを選んだ『ランドマーク』には確かな温かみが宿っている。これは皮肉や怒りを発するのと同時に、"温める"という行為によって不安や悲嘆に抵抗しているのではないだろうか。まさしくグリーフケア(悲嘆へのケア)というべき意匠がこのアルバムには刻まれている。


ちゃんと悲しむこと

「レールロード」以降は希望を繋いでいくパートだ。途絶えてしまった線路を想いながら、未来へ続くイメージを目いっぱいに浮かべていく。そして「踵で愛を打ち鳴らせ」で、喜怒哀楽の先にある身体の躍動を讃えていく。『ランドマーク』は、悲嘆のプロセスにおける④回復の段階と言える地点まで達し、グリーフケアを果たしながら閉ざしていく、、、とも捉えられる。

しかしこのアルバムに流れる"悲嘆"は複雑な部分がある。突然訪れた"さよなら"の言えなかった別れ、遺体のない行方不明という別れ、そして遠く離れた場所で大きな災害が起きたという漠然とした"別れ"の存在。こうした、喪失した確証のない不確実な状態を「あいまいな喪失」と言う。アメリカの心理学者ポーリン・ボスを定義づけたこの"あいまいな喪失"だが、アジカン、そして後藤正文が東京で感じ取ったこの悲しみきれなさはまさにそれだ。

悲しむ、ということが憚れる境遇だったことも理由だろう。それはそうだ。当事者と同一化することは傲慢とも言える。後藤は“生き残った側”としての思いを今なお募っている。だからこそ、悲しみに暮れるわけでなく、怒りや不安を吐露し、表現者として未来を歌うことを選んだのだ。しかし一方で胸に抱える「あいまいな喪失」がどこにも行けないまま、ちゃんと悲しめないままで心に残ることもまた苦しみを生む。


『ランドマーク』はフォーキーな「アネモネの咲く春に」で幕を閉じる。この曲は3つの宛先に向けて綴られた手紙という形を取る。聴き手でもなく特定の誰かでもない、しかし誰かに宛てた言葉の中で後藤は静かに悲しんでいる。そしてサビで必ず繰り返す。《赤い花は枯れてしまった 君は今日幸せだった? Too late》と。行き場のない想いは行き場のないまま、しかし悲しむことはできる。『ランドマーク』の終着がこの曲で良かったと本当に思う。


かくしてアジカンは自らの身体性を取り戻した。ツアーではサポートメンバーを迎えた7人編成によって、音楽的な充足感を満たしつつ、バンドにストレスを向かわせないスタイルを模索し始めた。後藤はGotch名義でのソロ活動も活発化。アジカンの精神状態は安定しつつある中、次なるテーマはロックという巨大な概念への挑戦だった。彼らは轟音を求めて米国へ向かう。


次回レビュー⇒『Wonder Future』(10月更新予定)

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