バンドたちはなぜメシを食うアーティスト写真やMVを撮るのか
MONO NO AWAREの新曲「同釜」、そのミュージックビデオは“メシを食うこと”を中心に据えた作品だった。和中洋と次元を移ろいながらメシを食う。最後に演奏シーンがあり、そして高笑いする玉置周啓(Vo/Gt)もいる。異様なビデオだ。
このようにメシを食うミュージックビデオや、もしくはメシを食うジャケットのアートワーク、そしてメシを食うアーティスト写真などはバンドにおいては思いつく限りでもかなりある。これはどんな意味があるのだろう、と考えたくなった。
そこで上のツイートをしたところ、沢山の人から様々なメシ食いバンドの写真やビデオが集まった。そして”食事シーン“について調べる内に興味深い論考にも出会った。本稿ではこの論考にある4つ「食」の意義(命の食/快の食/共の食/宴の食)に基づき、”メシ食い”ルックについて考えたい。
「命の食」と「快の食」
命や生きることを歌った楽曲において、“メシ食い”ルックは用いられやすいように思う。身体維持機能を果たす「命の食」。食におけるこの要素は強いメッセージを持つ楽曲とも紐付きやすい。例を挙げるとTHE BACK HORNの「初めての呼吸で」のMV。ギターの菅波栄純がカレーを作って1人で黙々と食べる姿が捉えられている。この楽曲を始め、多くの楽曲の作詞を担当する菅波の命の営みや生き甲斐のメタファーのように映る。
しかしこのメシ食いは菅波単独であり、バンドでのメシ食いとはやや意味合いが異なる。「命の食」とはあくまで1人の人間の中だけで完結する食事の意義であるため、個人の画を映し出すことでこそ命や生の存在を強く伝えているのだろう。
このような命や生のメタファーとしての食事が、直接的にバンドの音楽と重ねられるケースもある。colormalの「回転」のMVは円卓での食事シーンとストイックな演奏シーンを何度か切り替える。礼賛の「PEAK TIME」は浮かれた食事シーンとクールな演奏シーンを何度も切り替える。日常的な生命維持活動と音楽という生業を結びつける演出意図がメシ食いルックにはありそうだ。
これは例えば、近年の若いルーキーバンドたちのエネルギッシュな”メシ食いアー写”にも通ずるものだろう。生きることと音楽を結びつける上で、メシを食う姿を捉えた写真は最適と言える。
味覚を始めとする感覚を喜ばせる、五感充足機能という点もまた食の意義でありこれは「快の食」と分類される。この「快の食」が"メシ食いルック"に用いられるのは、主にその楽曲に何らかのメシが登場する場合であり、メシの味や美味しさが楽曲のイメージと強く呼応しているケースだ。
「快の食」があるからこそ「命の食」となる、という前提がある以上この2つの意義は分かちがたい。冷やしネギ蕎麦をすするCody・Lee(李)の表情、チャーハンにくらいつく挫・人間の勢いを見れば、ここにも”命"のイメージが湧いてくる。
またメシ食いが命や生きること、また快を象徴するのであればその裏を表現することも可能である。例えばSEKAI NO OWARI「Food」のMVは、どうにも美味しそうには見えない食事模様が一つのメッセージとして機能している。
更に深読みすれば、例えば精神分析家フロイトの言う生の本能(エロス)と死の本能(タナトス)。結合と破壊のモチーフは料理を作ることと食べることにも重ねられる。食べ方次第で退廃的なムードや危なげな色気が漂うのはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの1stアルバムや、betcover!!のアー写からも如実に伝わってくるだろう。
「共の食」と「宴の食」
ここまで述べてきたメシ食いルックの意義は、実のところ全て個人アーティストにおいても適用できるものであるため、バンドに限った話ではない。ここから述べていく集団における食の意義に基づいたメシ食いルックの紐解きこそ、特にバンドにおいて特有のものと言えるだろう。
集団における食の意義、1つ目は関係強化機能だ。食事を共にすることで他者との繋がりを実感できる、「共の食」と呼称されるこの意義はメシ食いシーンを含むMVにおいてそのバンドの雰囲気や楽曲のムードを伝える上で大いに機能する。
買い物から調理、食事を描くフレンズのMVも、うどんを食べ歩き続けるサニーデイ・サービスのMVも、にこやかにラーメンを食べるくるりのMVも、「命」や「快」のイメージに加え「共」、つまりバンド間で静かにシェアされる喜びが溢れている。他者同士で構成されるバンドだからこそ、この食を通じた交感が鮮明に伝わるのだ。
またビデオのみならず、メシ食いアー写にもこの食を通じた交感が映し出されていると考えられる。デビューして暫く経った後に撮られるこれらのメシ食いアー写はどこかリラックスした空気が漂っているものが多い。バンドとして関係性が深まり、そのラフな姿にメンバーの繋がりが映し出される、そんなイメージが湧くものばかりだ。
また、その油断した表情も“メシ食いルック”の魅力であろう。この写真を観ている我々を向くメンバーが必ずいるこれらの写真。柔らかく、隙のあるそのムードが聴き手側も自然と写真側に引き寄せられ、微笑ましい気分になる。「共の食」はメンバー間のみならず、我々リスナーにも及び、その繋がりを実感させてくれるものかもしれない。
メシとあまり関連しない作品にも関わらずメシを食うジャケットを採用した作品にもこれらと同じようなことが言えるだろう。わざわざ孤食という言葉ができるほどに強固な“共食”という概念は時に古いしきたりとみなされれがちだが、作品内に持ち込まれるとバンド間の信頼を描けるのだ。
信頼や関係強化を意味するメシ食いルックだが、もちろん上にあげた中には解散したバンドもいるしメンバーが脱退したバンドもいる。メシ食いを経ても、永遠は約束されていない。その儚さ、またひとときでも強固であった絆のかけがえのない記録としてもメシ食いの場面は輝くのだ。
時を経て、異なるメシ食いルックを見せたバンドもいる。ゲスの極み乙女はメジャー1stシングル「猟奇的なキスを私にして」のMV内で円卓上の1つの餃子を取り合っているがそれから時を経て、結成10周年でリリースした「丸 Best Track」のビデオでは豪華絢爛な中華料理を囲み、楽しげに祝杯を挙げているシーンが映し出される。
「共の食」に祭事や儀式のような非日常が持ち込まれると「宴の食」へ変わる。そんな流れをゲスの10年が体現する。生活からパーティーへ。仕事から打ち上げへ。ケからハレへ。関係強化の先にあるより大きなもの、例えばアニバーサリーを讃えるような饗応儀礼機能が「宴の食」にはあり、その表現にもメシ食いルックが用いられる。
その代表格は東京事変「緑酒」のMVだろうか。結果的に期間限定となった再結成を祝いつつ、終わりゆく祭りの匂いも含めた、まさに宴の記録。解散前の「空が鳴っている」のMVでもメシ食いを確認できるが、こちらの抑制の効いたトーンとは異なり、ハレの側面が強調されるのが特徴だ。
またメシ食い × 宴でルックを語ろうとするならば、レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」のモチーフを忘れてはならない。あの絵画の構図は“画”としての強さに加え、宴らしい高揚感、そしてそこに息づく死の予感も含めて非常に多層的だ。バンドが横並びの構図でメシを食う姿は、楽曲やバンドのイメージを複数の方向へ広げる。
「同釜」と総括
さてここに挙げてきたメシ食いルックの意義を踏まえて再びMONO NO AWAREの「同釜」を見てみるとこの作品にはあらゆる要素が詰まっていることがよく分かる。和食パートでは黙々と朝ごはん的なラインナップのメニューを食べ続ける4人の姿に「命の食」を感じ、鮭の皮の匂いを嗅ぎ満足気な玉置の顔は「快の食」を映し出す。4人が顔を突き合わせてにこやかに食事を行う中華パートはバンドらしく「共の食」を体現しているし、洋食パートはまさに「宴の食」であろう。
同じ釜、と書いて“おなかま”と読ませていたり、そのリリックは様々な固有名詞やパーソナルな思い出を引用しながら人が生きて死んでいくことを描いた命と営みの歌であったりと、メシ食いを通した豊かな音楽表現が満載である。しかもこの楽曲を1曲目においた来月リリース予定のアルバムのタイトルは『ザ・ビュッフェ』だ。メシ食いと音楽について絶え間なく思考させてくれるはず。
かなりの長文になったが、以上が「バンドはなぜメシを食うアーティスト写真を撮るのか?」に関して真剣に考えた結果である。今回は主に4つの観点に分けてみたように、ひとまとめにはできなかった。またバンドにメシ食いルックが多いのは事実のようだが、WACK系をはじめとするアイドルたちにも集団でのメシ食いルックがあり、それらについてはまた別個に検討が必要だろう。いずれにせよ、不思議にシーンに根付き、恐らくこれからも増えていくであろうバンドたちのメシ食いルックを紐解く一助になれば幸いである。
🍽️
(6/13 追記)
この記事を書くきっかけとなったMONO NO AWARE「同釜」を収録したアルバム『ザ・ビュッフェ』についてのレビューが書き上がったのでお知らせします。メシを通して人生を描く、という点で本稿に興味を持って頂いたならば面白く読んでもらえるのではないかと思いますので是非!
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