共同体に拒絶されず、迎合してきた、一同性愛個体として

昨日(正確には今日?)読んだ本が多分人生で一番な本になりそうだからここに読んだ時に考えたことを雑多に記そうと思う。個人的体験の話が軸なのはご了承いただきたい。

読んだ本は、朝井リョウ『生殖記』。話題になっている本だね。かくいう私も、本屋で平積みにされていて、内容全然想像できないタイトルだし買ってみようかなみたいなノリで買ったと思う。すぐ積読しちゃうタイプだけど今回はすぐ読んだ。

以下、ネタバレになるためどうか本を読んでからこの投稿を読み進めてほしい。私の稚拙な文章で、あの本の魅力を語ることが難しいからというのはもちろん、本を読んだ前提での文章だから、未読者への説明は書かないためである。
そもそも私のアーカイブ的なものだから、読む人のことなど考える必要ないのだが、これは公開ブログであり、作者はネタバレを禁じていることを鑑みての注意書きである。



いやーー非常にいい本だった。私はよっぽどのことがない限り、本に対してはなんかよかったと思う、批評性の欠けた人間であることを差し引いてもいい本だった。想定していた内容と全然違うし(あまり内容を想定できるほどの情報も事前にはなかったが)、この本が売れて、平積みされていることが嬉しいみたいな気持ちになった。

朝井リョウの作品を熱心に読んできたファンかと言われるとそうではないと思う。あまり作者単位で本を読む習慣がそもそもない。彼の作品で読んだことがあるのは、『何者』『死にがいを求めて生きているの』『武道館』だけだ。パーソナリティも特に知らない。ハロヲタってことぐらい。ダヴィンチのモーニング娘。特集にコメント寄せてたよね、あと前なんかショッピングモールかなんかで踊ってたな、じゅーすが『武道館』のドラマやってたね、大学も学部も一緒らしい。ぐらいの認識。

先にも述べたが、私がこの本を手に取ったのは作者買いではなく、本屋で平積みされていたからだ。多分ネットだったら買わなかったかも。だって話題の本なのに発売から少し時間経っちゃったじゃんって理由で。そんなのほんとは関係ないのにね。


じゃあそろそろ感想を書き留めていこうかな。

以前の投稿で書いたことがあるように私は同性愛個体である。少なくとも男性に惹かれたことはない。同性愛個体として19年間生きてきた。いや、これは嘘かも。同性愛個体であることの自覚は早くはなかった。中2の夏とかだった。まだ同性愛個体としての自我は5年半とか。つい最近までというか、今でも懊悩としているところ。”しっくり”を見つけられずに。
(同性愛個体って言い方いいよね。これから使いたい。クィアについて大学で勉強しようとしている身で言うのよくないかもけど、レズビアンとかってちょっと馴染まなかったんだよね。)

だって人のことを好きになるっていう感情はフィクション、もしくは高校生とか大学生とかになったら持つものかと思ってたんだもん。中学入ってびっくり。人って人のこと好きになるんだって。

閑話休題。
主人公(でいいのかな)の尚成に共感する部分もめちゃくちゃあるし、理解はするけど私はそうではないなとなる部分があった。読んでいく中で忘れたふりをしていた、というか”しっくり”きたことにしてもう考えないようにしていた感情たちが掘り起こされて、読むのをちょくちょく中断した。本の長さ的には2時間もあれば読み終わるだろうに5時間ぐらいかけた。うわーーーって叫びそうになるたび、その感情をメモしていた。

尚成は同性愛個体であり、幼少期の身近な二大共同体である家族と学校から「立ち入り禁止」という拒絶を受けている。年齢は30代半ば。
LGBTという言葉が日本でも少しずつ広まり始めた時期を大学生くらいから現在まで過ごしつつも、幼少期は差別的な言説が「おもしろ」として蔓延していたぐらいの年齢なのかな。解像度低くて申し訳ない。「LGBTブーム」と呼ばれる過度の商業化の波は2010年頃始まりだった気がする。あと今でもネットでは「ホモネタ」が人気なわけでまだまだ差別的な発言は「おもしろい」とされているよね。

親が同性愛に否定的なの、でかいよね。否定しようが何しようが、存在するのに、何をどうやって否定しようとしてんだよとは思うけれど、それを実際に親に言うことは難しい。親は親である時点で98%ぐらいの確率で異性を愛することができ、次世代を残そうとした人だ。その時点で同性愛個体とは馴染まぬものがある。親は選択できる存在じゃないから、それが露骨に同性愛否定派なのはしんどいよな。

あと都会、特に他者に干渉しないレベルの都会。東京とか。そういうところじゃない限り、同性愛個体であるとバレることは共同体から排除されるのではという恐怖心を当事者は抱きやすいと思う(東京に夢見すぎ?)。一人にばれたら全員にばれたと思った方が良いぐらい、プライバシーの意識がない人が多い。そして他者の個人的な部分への興味・干渉も。他にすることないんか。
これは、まあn=1として受けとってくれてもいいよ別に。200万都市で18年生きた私の所感としてこうなだけ。私も絶対バレないようにしようとしたし、同性愛個体とバレることは死だと思っていた。今でも親に言ってない。

尚成は、共同体からの拒絶の経験が考え方に非常に影響しているように思う。同性愛個体であることそのものというよりは、それにより引き起こされ得る、起こされた共同体からの「立ち入り禁止」宣言が彼の人生に影響をかなり及ぼしている。

ここが私は彼と最も違う部分でありながら、一部重なる部分もある。(以降は自分語り)

幸いなことに、00年代の半ばに生まれた。そして自分が同性愛個体であることに自覚をしたのは中2の時、2019年だ。この時日本社会は一定程度、LGBTへの「理解」が進んでいたように思う。小説の中で言われていたように、この「理解」はあくまで異性愛個体を中心として、その社会に害は及ぼさず、経済的な利益をもたらす可能性のあるものとしての「認めてあげる」というレベルのものであったかもしれない。しかし、一概にそう悲観するにはクィアの若者を取り巻く環境は改善していたのではないだろうか。

Youtubeには当事者としての発信をする個体が多くいて、ネットで調べればポジティブな生き方をする個体を見ることができる。保健の授業では、LGBTのことやアウティングの加害性などが取り扱われる。差別的な発言は少しずつテレビから減っていき、差別的なことを言う議員は問題視され、糾弾される。そういう時代だ。

時代としては、世間的な流れとしてはそうだった。だから私の中で同性愛個体であることはひと世代前に比べればスティグマではなかったように思う。少なくとも個人的にはADHDであることよりはスティグマ感は少なかったかな笑。

家族には言えないけど、多分言っても関係は特に変わらないと思う。リベラルな感覚の家族だから。そして、少しずつ匂わせるように私の好きな女性同性愛個体を描いたドラマの話や、大学で学んでいることの話をしているから。察している部分はあるのかもしれない。「彼女でも彼氏でもできた時は教えてね。もし、誰のことも恋愛的に好きにならないならそれはそれで好きにしていいよ」と帰省した時に言われたし。

私は、家族及び学校という共同体からの直接的な「立ち入り禁止」宣言はされていない。

じゃあ、どこが重なるかと言えば、間接的な「立ち入り禁止」というか、内在したものかも。嫌悪とまではいかなくても、好意的に受け取られる存在ではないことを受け入れていた。「なぜ他人に、誰を好きになるかだけで腫物扱いされなきゃいけないんだ!おかしいだろ!!」って怒りは持っているけど、同時にその扱いを受け入れていた。中2の時からずっと。

いい例が、恋バナ。みんな好きだよね恋バナ。私もしてみたかった。
でも恋バナってさ、聞く一方だと、なんかないのあんたは?って言われちゃう。それ以上に、恋バナの中でもしバレたらと思ったら怖かった。だから、恋バナは参加できないし、聞いてもよくわからない。好きな俳優(女優を除く)とか、誰がイケメンだとか言われても興味が持てない。
結婚はおろか恋愛も自分にはできないんだって中2のときは思っていた。だから、彼氏が欲しいだの、○○といい感じかもだの、脈があるだのないだの、贅沢な悩みだと思っていたのかも。「いいな、両想いになれる可能性を念頭に置いた悩みは。」って思ってた。今も少し思っている。異性なら脈ありな行為も、同性となれば普通に仲いい女の子同士のスキンシップでしかない。

日常で同性愛個体と出会うことは難しい。出会うとすれば、アプリやツイッター、新宿2丁目とかになるのかな。日常生活では難しい。特に、クローゼットとして生きている人間には。サークルの先輩とかには良いけど、誰に知られてもいいとは思ってない自分としては、そういうところはハードルが高い。「現代思想」の『恋愛の現在』で「恋愛からの疎外、恋愛への疎外――同性愛者の問題経験にみるもう一つの生きづらさ」というやつで、恋愛への疎外ってことでこの話がされていた。
もうあきらめるしかない。異性愛個体や生きるのが上手な人たちの生活がよりよくなるための歯車として生きるのか…みたいな気持ちになる。まあそこまで諦念を中心としてはないんだけどさ。

あと、人生設計をしようみたいな家庭科の授業とか、タイムマシーンがあったら先祖と子孫どっちに会いたいかみたいな英語のお題とかね。結婚や出産を人生設計に入れることが当然視されて、それに向けた貯蓄やキャリアプランを考えさせられても、そんなの私の人生には起きないライフイベント。
タイムマシーンで50年とか100年先に行っても、子孫はいない。私で絶えるから。過去に戻る以外の選択しないじゃん、これじゃ。選択肢が私だけ端から一つの質問。

決して同性愛個体であることを中高生の時はバレてはいけないと思っていたと前述した。しかし、正確には一度そのことを中3の時に部活の同期の1人に話してアウティングされてから、禁忌だという意識が強まった。先輩からしたらちょっとしたからかいだったのかもだけど、なんで同期の1人にしか話してないのに先輩が知っているんだってなった時の血の気が引いていく感じ覚えている。ここは東京のような都会ではない。プライバシーの意識のない街なのだ。

小説を踏まえて自分の中の同性愛個体だとバレてはいけないという意識の由来を考えてみた。というかずっと考えていること。
異性愛個体を基準に回る世界において、はみ出し者になり、共同体が”次”へ進むことに寄与できないからだろうか。それもあると思う。あと、自明に存在を想定されている者ではないことが、共同体の均衡を乱すと思っていた。

でも、一番は何だろうなと考えたら、多分「ネットの”声”」なんじゃないかな。

2019年の9月ぐらいかな、私が同性が好きだって自覚し始めたのは。で、まだあんまり受け止め切れてなくて、どうしたらいいかわからなかった。そんなこんなしてたらコロナ禍になって人と会うことは減って、オンライン授業で在宅時間が増えた。その間、運動・勉強・SNSに時間を使っていた。2020年の後半のことだったように思う。足立の議員が「同性愛が広がれば足立区が滅びる」みたいなことを言ったのは。まじかってなった。今よりもさらに未熟だったから、社会はもう同性愛個体を公然と差別しないと思っていたのに。
あと国会議員でも「生産性」がないみたいなことを平気で言う人もいたよね。

議員の発言自体も、思春期私には刺さってしまった。それ以上に、それにのっかった差別と、「擁護」の”声”がきつかった。生産性の有無を常に問われる感じとか、そういう尺度から図られる感じがイヤだったのかもと今になると思う。
けど、当時は何がイヤなのかもうまく理解できなくて、自分が同性愛個体であることを否定しないが、同性愛という属性のことを否定した。インターネットにあふれる、「当事者」によるヘイトにきれいにからめとられた。「生産性」がないということにも共感したそぶりを見せ、異性愛個体の迷惑にならない形で、存在させてもらい、権利を求めるのはおこがましいと思っていた。フォロワーが一人もいないツイッターアカウントで悶々としていた。同性愛嫌悪を募らせていた。今となってはどうしようもない行動なんだけど、それが生存戦略だったのかもしれない。当時の私には。

少しずつ素行を改め初めて、本とか読むようになったらこれは改善された。ちゃんとした文献にあたるって大事ね。でもあの思春期に募らせた同性愛嫌悪は確実にあるし、自分が同性愛嫌悪に陥るきっかけになった異性愛個体の「傲慢さ」を憎んだ気持ちが完全に消えたわけじゃない。今も少しこの憎しみとか嫌悪はある。

異性愛個体の「より良い生」のために同性愛個体の存在が「認められる」ことや、マーケティング対象とされることへの嫌悪がある。日本社会はいっそ、もう全部無茶苦茶になっちまえばいいのにって、議員のくそ発言やネットのくそ発言を見るたび思っていた。結婚の自由をすべての人に訴訟でよい判決が出るたびに、嬉しくて調べて、「でも敗訴だろ。生物学的に間違っている」みたいに否定的な言説が出る。そのたび落ち込む。ドラマやアニメでクィアの登場人物が出ると嬉しくて見て、パブサして落ち込む。なんなんだろうな。

今はさ、社会が無茶苦茶になるとき、社会的弱者から抑圧されると理解していて、もし滅びるなら異性愛個体と同性愛個体はそのタイミングさえ苦悩さえ、同じじゃないと思っている。先に同性愛個体が抑圧され滅びる。今だって、権力者の匙加減で私たちの権利は奪われたりなんだりしている。そしたら、私はただでこの社会が滅びるのを待っていたら、「復讐」はできない。

尚成は共同体に拒否された経験から、異性愛個体の特権剝奪の未来を期待して、より効率的な時間の消費にいそしんだ。
私は共同体に受容されてきた経験から、以降自分のかなえたいものがあるときに拒絶されたらいやという理由で、社会運動に賛同し、声を上げることを選んだ。

私は尚成というより颯のスタンスに近い。

自分のために社会運動をしている。そのことを理解したうえで被差別属性の解放を訴えることで、社会に貢献している感を得られて、共同体への貢献を感じることができる。つまり、どちらにしろ自分のためだ。発狂してしまうことが怖い。

でも最近SNSのバックラッシュを目にすることに疲れ始めた。疲弊している。自分のためとわかっているそぶりをしつつ、利他感に酔っていることもうすうす気が付いていた。そこで、この本を読み終わった後、ツイッターアカウントを消した。


少し、自分の話から本の話に戻る。
尚成がNPOに参加しなかったことも、共同体への迎合を試みたもののやめたことも、安易に恋愛フラグを立てられなかったこともどれもすごくよかった。
もし最後に彼が、恋愛をすることで気持ちが変わり、恋愛を通して、共同体に「寄り添い」、カミングアウトをし始めるとかだったら、興ざめだっただろう。恋愛が変える部分はあるだろうけど、恋愛を経験しなかったことだけが尚成の根幹を構成しているわけじゃない。恋愛によって、カミングアウトによってすべて丸く収まりましたみたいなのがイヤなの。カミングアウトを銀の弾みたいにされるのがイヤで仕方ないのだ。

そうならなかったことがじんわりとよかった。そして、この本が売れていることがなんか希望というか、グッときた。朝井リョウの言語化能力の高さや、描写のうまさによるものは当然として、差別にまみれているようでうんざりするような社会だと思っていたのに、このテーマの本が売れているんだってのが心に来た。


まとまりなく、6,000字近く書いてみたけど、私の心は少し整理されたから良いや。読みながらうーーーーって悶絶しながらメモに感情書き残しつつ読んだ。良い本に出会えたと思う。


最後に書くことじゃないけど、昨日は『生殖記』に加えて『雪のうた』と『すべての、白いものたちの』を読んだよ。今週買った本は爆速で読んでて、あとはカナファーニーの本だけ。期末が終わると本読んじゃうよね。

※誤字脱字はおいおい確認するけど、いったん投稿するので定期的に修正するかも


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