『黎明に叛くもの』/『天王船』
『黎明に叛くもの』
戦国時代を代表する謀叛人として名高い斎藤道三・松永久秀の二人は、幼い日に〈山の老人〉果心居士のもとでペルシア渡来の暗殺術〈波山(ハサン)の法〉を習得した兄弟弟子だった。共に天下を目指すと誓った二人のうち、阿波三好家に仕えた久秀は妖術を縦横に駆使して一時は都の支配者にまで昇り詰める。一方道三は美濃一国を手に入れるも、自身は天下人の器ではないと思い切り、娘婿信長に期待をかけ死の間際には久秀にも信長に従うよう促す。自らを侮る者を許せない久秀はそれを拒み通そうとするも、信長の威勢には勝てず屈従を余儀なくされた。憤懣やるかたない久秀は三種の神器と並ぶ至宝〈天の沼矛〉を餌に武田信玄の上洛を誘いつつ信長に叛くが、信玄は上洛の途上不審死を遂げてしまう。信玄が〈波山の法〉によって暗殺されたことを知った久秀は、とうに死んだはずの兄弟子・道三の仕業であると確信するのだが……
初出は2003年(中央公論新社)。小島文美がカバーイラストを担当したC★NOVELS版が2004年に、中公文庫版が2006年にそれぞれ刊行された。
前二作に比べるときらびやかな伝奇的要素は薄いが、その分虚と実が深く入り混じりメタフィクション的な趣のある長編。久秀と関わる信長も破滅的な印象を与える両性具有の美しさは備えておらず、司馬遼太郎的な合理主義者・開明主義者として描かれている。本作は斎藤道三と信長・光秀の師弟を主題にした『国盗り物語』へのオマージュだが、単なるオマージュにとどまらず、司馬が「国民作家」として大成する過程で零れ落ちた可能性を掬い上げた司馬作品の内在的批判としても読むことができるだろう。
司馬の初期作品、とりわけ伝奇的要素の濃い忍者小説において「歴史的存在としての権力者たちのもつ合理性 (※1)」は人間を道具視する冷酷なものであるとして否定的に描かれていた。しかし伝奇小説から歴史小説への転回と歩調を合わせる形で、この合理性は国家的な統一としての近代のなかで肯定的に価値づけられるようになる (※2)。本作では道三や信長の開明性に真っ向から反発し、あえて中世の闇(アサシン)に留まろうとする久秀を主人公に、歴史の目的論的解釈に対する強烈な「否」が突きつけられるのだ。
ミステリー部分の核心にあたるため詳述は避けるが、本作のラストシーンは三島由紀夫『豊穣の海』のそれを意識して書かれている。虚無と静謐のうちに幕を閉じる『豊穣の海』を宇月原は小説家デビュー前の評論で「失敗した叙事詩」と評価していたが(※3) 、その一場から分岐するラスト20ページ、〈どこまでも昇りゆく日輪〉としての信長に叛くと決断し実行する明智光秀の情念は圧巻であり、幻想の霧を漂っているような読中の印象を吹き飛ばすカタルシスに満ちている。
『天王船』
『黎明に叛くもの』の外伝短編集で、初出は四分冊されたC★NOVELS版への書き下ろし。中公文庫版は2006年刊。〈アサシン〉時代の道三と久秀を描く「隠岐黒」、若き日の信長と久秀の関わりを描く表題作、久秀が用いた神器〈天の沼矛〉のその後を描いた「神器導く」、モンゴル帝国に滅ぼされた暗殺教団が日本に渡る経緯を描く「波山の街ー『東方見聞録』異聞」の四編が収録されている。
※1 成田龍一『戦後思想家としての司馬遼太郎』、筑摩書房、二〇〇九年、四三頁。
※2 同上、一二五頁。
※3 『ワードウォーズ』、二一六-二三八頁