あの子と夏とお伽噺
そう。
夏である。
今年もまた訪れたのである。
夏が。
2020年が始まったと思いきや、新型コロナウイルスの影響により、日本だけでなく世界中が大混乱に陥った。
東京オリンピックは延期し、全国でイベントは軒並み中止し、これまでの日常が一変した。
そんな激動の日本であるが、いつものように夏は素知らぬ顔で訪れた。
先に述べておくが、僕は夏が好きではない。
別に憎悪にまみれるほどに嫌っているわけでは無いが、特に好きではない。
すんごい汗をかくからである。
べたべたしながら1日過ごさなくてはいけないのが悔しい。
夏への敗北感を突き付けられる。
毎朝、家の玄関を出た矢先に降り注ぐ日差しで、汗。
急いでいるわけでもないのに、何ならいつもより少しゆっくりめに歩いているのに、汗。
駅に向かう道に限って、日陰の無い道ばかりで、汗。
満員電車の中で、今日も日本の経済を支えようとサラリーマンたちの誇り高き熱気に、汗。
まるで関が原の如く、駅から群れを成す一人の足軽として歩を進め、汗。
朝っぱらから人目もはばからずに路地裏で交尾をする猫に敬礼し、汗。
「申し訳ございません。二度と遅刻など致しません。」と深々と頭を下げ、汗。
悲しきかな、夏を制するためには、汗を制さなければならないのである。
受験生たちもよく聞いて欲しい。
受験を制するためには、夏を制さなければならない。
だが、その夏を制するためには、まず汗を制さなければならない。
「将を射んとする者はまず馬を射よ」
将を射ようとするならば、まず馬を射なければならない。
だが、その馬を射るためには、まずにんじん嫌いを克服せよ。
と、そんな経営戦略が叫ばれるこのご時世だが、私が夏を嫌う最たる原因は”汗”ではない。
”セミ”である。
別に、”セミ”が嫌いなわけでは無い。
好きである。
いや、それは嘘になる。
別に、普通である。
具体的には、”セミ”に対する人間の固定概念である。
夏真っ盛りになり、セミが声高らかに日中鳴き乱れる。
夏の風物詩とも讃えられるセミの存在は、俳句・川柳にも取り上げられるため崇高なものだと言える。
しかし、こうも朝っぱらから声高らかに主張されると心地が良いものとは言えない。
時折「少々、戯れが過ぎますぞ。」と爺やの如く釘を刺したくなるような瞬間もあるわけである。
しかし、遊び盛りの若様は年寄りの戯言などに耳を傾けるはずもない。
人目もはばからず、己が欲望のままに振る舞い続ける。
あまりのわがままさに主君の未来を憂う爺やのもとに、往々にしてこんなことを言いに来る輩がいる。
「セミさんは、1週間しか生きられないんだよ?可哀想じゃん!1週間くらい思いっきり鳴かしてあげようよ!」
まったく余計なお世話である。
こういう発言を聞くたびに、僕は夏と天真爛漫な人間が嫌いになる。
まず第一に、この発言は”セミ”という生物に対して自分は「慈悲の心を持っているんだ」という人間性に基づく周りに対する”ブランド構築”とそういった慈悲の心を持つという自分の優しさに対する”自己陶酔”によるものだと思われるが、見当違いもほどほどにしていただきたい。
確かにセミは成虫になり地上で1週間しか生きられない。
ま、細かく言えば1週間では無くて1か月くらいは余裕で生きられるらしいが論点はそこではない。
わずかな時間しか生きられない地上は、セミにとって果たして本当に幸せな場所なのだろうか。
私たち人間が生きるこの地上は確かに楽園である。
酸素があり、水もあり、自然もあり、競馬場もある。
紛れもなく私たち人間にとって地上は楽園である。
だが、セミにとって地上が楽園なのかは分からない。
セミにとっては地中こそ楽園で、私たちが生きるこの地上は地獄のような場所かもしれない。
セミだって好きでこの地上に出てきているのではないかもしれない。
可能ならば、地中で生涯を終えたいのかもしれない。
セミにとって地上で鳴くことは、命が散る間際に訪れる最後の試練かもしれない。
とはいえ、私は生物学者ではないので、真実は分からない。
だから、往々にして現れる輩達に眼前で修羅の如く指導する資格はない。
だが、勝手に自分視点だけで物事を見て、無理やり自分の価値観を相手に押し付けてしまうのが良くないのは紛れもない事実である。
全てを自分中心に物事を捉えて、周りのことなど知ったことではないと我が物顔で振る舞い続ける。
そんなことは神様しか許されない。
とはいえ、たとえ神様であろうが、そんな振る舞いを続けると周りの神様方から協調性を疑われ、反感を買い、刹那に居場所を失うであろう。
ちゃんと相手の立場に立って物事を考えるべきである。
相手の立場に立って物事を捉え、その上で何かを伝える・何か行動をするということが、人間社会という組織の中で生きる私たちに求められるものではないか。
セミたちはそんな当事者意識を失い、他者からの承認欲求を生存原理とする若者に対して警鐘を鳴らしているのではなかろうか。
我々は夏の暑さに気を取られ、そんな問題提起の声を聞き逃してはいないだろうか。
今一度、汗をぬぐうその前に、自分の胸に手を当てて問いかけるべきではないか。
と、こんな感じの内容のお伽噺を書いて人気になれたら、当時まったく振り向いてくれなかったあの子が連絡をくれるだろうか。
水瀬