えげつないイギリスのインド植民地支配
イギリスと言えば、「オシャレ」「英国紳士」「ビートルズ」「デイビッド・ベッカム」等、洗練された良いイメージが浮かんできますが、インドの歴史を調べていくと、その植民地支配のやり方はかなりえげつないものだったようです。イギリスによる植民地支配は、18世紀半ば以降に東インド会社が支配を強めていくことで始まってますが、その中でいくつかの例をご紹介します(あえて悪い面をピックアップ)。
分割統治
インドでもヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立は根深いものがありますが、これをイギリスのインド植民地支配において利用し、独立運動を妨害しようとした政策のことを分割統治と言うそうです。それ以外にも藩王国間の対立や、カースト間の対立をあおることも分割統治の内容でありました。なんとも腹黒い。
アヘン貿易
18世紀以来、イギリスは中国との貿易において、一方的に茶を輸入するのみで、中国に売りつけるものがなく著しい輸入超過でした。産業革命後、工業製の綿織物を売り込もうとしましたが、中国の綿織物・絹織物に対抗できず、振るわなかったらしいです。そこで考えられたのがインド産のアヘンを中国に売り込むことでした。
アヘンはインドの栽培者に前金を支払って計画的に製造、そして中国に密輸され、イギリスは巨額の利益を得ることに成功しました。アヘンは、吸飲すると気分が高揚するなどの薬効があるものの、習慣化して次第に人体に害を及ぼし廃人としてしまう麻薬です。恐ろしい。
インド人女性の愛人(ビービー)との子供たち
18世紀後半には、イギリス人は公然とインド人女性の愛人(ビービー)と同棲することが習慣になっていたようです(但し、これはイギリスの家庭倫理にも反し、非難されるようになっていった)。イギリス人とビービーとの間に生まれた子供たちは「イギリス人」としてみなされることはめったになかったため、「ハーフ・カースト」とか「ユーラシアン」と軽蔑され、1973年には公務員に採用される資格がないものとされました。彼らはイギリス人からもインド人からも軽蔑され、しだいに寄り集まってインド社会の底辺の社会集団となりました。
第一次世界大戦での犠牲
第一次世界大戦が勃発すると、インド植民地では100万にをはるかに超える兵士が徴兵に応じてイギリス軍に参加しました。インド国内では、連合国側が唱える民族自決をインドも手にすることができるだろうという期待が高まりました。また、イギリス国内でもインドへの一定の自治を認める声が出始め、1917年、インド担当国務大臣モンタギュは「斬新的に自治制度を導入する」と述べました。ただ、モンタギュはその声明後、「インドの知識階層は、我々が授けた教育によって育った我々の子供にすぎない」と断言して本心をのぞかせています。イギリスの考えでは、改革はゆっくりと小刻みに(インドがふさわしい行為を行うごとに受ける恩恵として)インドに与えるものであったようです。結局、戦争が長期化する中で反英闘争も復活し、イギリスは一転してインド支配の強化にのりだし、1919年にローラット法を制定、翌年施行して弾圧を強化しました。
第一次世界大戦の各地の前線で多数のインド人兵士が戦死するだけでなく、インドの財政支出も多額にのぼり、大きな犠牲を払いました。
イギリス駐屯部隊がインド人370人を殺害
前述のローラッド法による弾圧に対し、インド人は様々な新しい手段で抵抗しました。主要都市ではデモ行進が行われ、時にはデモ隊が暴徒化することもありました。1919年4月、パンジャーブ州の広場で違法ではあるが何一つ武器を持たない人々が集会を開いていました。彼らを強制的に解散させなければならないと考えたイギリス駐屯部隊は次々に一斉射撃し、逃げ場のない群衆370人が殺害され、1,000人以上が負傷したそうです。
第二次世界大戦でイギリスが勝手に宣戦布告
1939年第二次世界大戦が勃発すると、総督リンリスゴーは、インドがイギリスと共ににヒトラーのドイツに宣戦布告したと宣言しました。しかし、その宣言について、インド側にはいっさい事前に相談はありませんでした。勝手に宣戦布告とはすごい。イギリスのインドに対する専制主義を象徴する出来事です。
参考図書:2006年「インドの歴史」バーバラ・D・メトカーフ/トーマス・R・メトカーフ