高原の都シムラ
大英帝国のインド植民地の首都はカルカッタでしたが、一部の英国人は、4月から9月までモンスーンの極暑が続くこの地に耐えられず、ヒマーチャル・プラデーシュ州のシムラ(Shimla)に滞在しました。1860年代にシムラはインド政府の夏季の首都として定着。シムラは高地にあり、ときに霧も出て、英国の気候に似ていたとされます。
シムラ社会の序列
シムラは一つの小英国社会でした。植民地の政治の中枢であると同時に、世界に類のない社交都市でした。1年の半分以上の期間、インド支配層の英国人が狭い空間に集まり、頻繁に顔を合わせるのです。1880年代のシムラの英国人の人口は3,500人に満たなかったとされます。
トップは総督一家で、これを頂点に高等文官、本営の将校が最上層を形成。文官はイートン、ハロー校出身が多く、武官ではラグビー、ウエリントン、マーロウ校の卒業生が多数。次に来るのがビジネスマンで、小売業者はその下に位置しました。更に、英国と現地人の混血ユーラシアンや、貧困のために本国に戻れずインドに住み着いた英国人等約1,000人がシムラ社会の末端にいました。
シムラでの英国人の暮らし
シムラにはショッピングモール、競馬場、ダンスホールがあり、シムラの社交界は、舞踏会、乗馬、昼食会、食事付き観劇などに明け暮れていたそうです。英国本国から視察にきた議員は、シムラの英国人のぜいたくな暮らしぶりに驚いたとのこと。狭い社会で摩擦も起きやすかったようですが、「同じ大きさの英国のどの町より明るく陽気だった」と振り返る人もいました(Lawrence)。
ロンドンのようにシムラにもいくつかのクラブが誕生します。試験合格者のみをメンバーとするクラブがまず誕生しました。これに入れない専門職や銀行家、貿易商のクラブや女性のためのクラブも設立されました。狭い社会で女性比率が高く、勤務地に夫を残してシムラに来ている夫人や、短期滞在している若い独身の軍人や官吏もいて、シムラでは男女間の噂やスキャンダルが絶えませんでした。一方、現地のインド人との生活とは大きな隔たりがあり、寧ろ、インド社会に深入りはしてはならないと考えられていました。
にわか貴族
インドに来ている英国人は本国の中では中流層がほとんどで、植民地に来てから上流に変じた、いわば「にわか貴族」でした。小説家キプリングは、「シムラは、英国エリート社会の不完全なレプリカに過ぎない」「それはインド植民地おいてのみ成り立つ」と表現しています。
参考図書:2004年「インドから見た大英帝国」北原靖明