見出し画像

恋と愛の定義メモ202409時点


友人と議論をしていて自分の中にある恋と愛についての見解が深まったの、かなり面白かったので記録に残します。
書き散らしのメモなのでオチはありません。


自分にとっての『恋』

相手の幸せの要因に自分の存在を望む、自分の存在や言動で相手を幸せにしたい。
相手の幸せに自分が携わりたいと強く思う。

また、相手といることで自らも幸せを得たい。
相手の眼差しの中心に自らを据えたい。

→この場合の『眼差し』のイメージとしては一眼レフで、通常の視界レンズはF値5.6〜8くらいの状態で私が画面の主として写っている状態。でも対峙しているときはF値1.8くらいまで絞って自分の存在に強くピントが合っていてほしい。他のものが全部丸ボケして、眩しいくらいに輪郭がくっきりしていてほしい。

相手の隣にいる存在は誰か相応しいかどうかを考える(それが自分であったら最も嬉しいが、異なる場合はそちらの成立を望む)。


触れたい会いたい触れられたい、またはその逆の欲望がしきりに生まれる。
(その逆:触れ合いたくない会いたくない)

言葉にして口に出したくない。


▶自分がどうしたいか自分がどう見られたいかばっかりで、相手には相手の思考があることを他所にしている。
偶像崇拝に近くて盲目的であり、相手に対する全ての結論がだって好きだから!になる。
良くも悪くも『自分』が中心。良くも悪くも、の内訳は3:7くらいで悪い方が勝ち。
自己中心的でエゴ。

けれど自分が幸せになれない恋なんて意味あるのか?と思っている側面もある。
(人の幸せを願う前にまず己を幸せにせよ、自分を幸せにできないのに他人の幸せに従事している場合では無い、と考えているから)


自分にとっての『愛』

相手の幸せに自分が関わるか否かを問わない。幸せであることを間接的にでも知ることができればよい。

もし自分が関わるのならば多少自分が損であっても何とも思わないので、自己犠牲の側面が強い。(この場合の「損」とは、客観的状況から判断しての物理的側面の意。例えば雨の日の送迎とか)

見返りを求めない。無償。
一緒にいようがいまいが衰えない。
不安とは無縁。
口に出して伝えたくなる。


▶恋とは逆で、自分の存在が二の次すぎる。献身的といえば聞こえはいいが、自分をおざなりにしているとも取れる。
とはいえ、動いている時は心の底から「相手の為になれるなら」と思っているから、自分が犠牲になっているとは露ほども感じない。利用されてるとも思わない。
ただ上述の通り私は、自分本位な考えを持つ人間でもあるから、何かのきっかけで『愛』と他の感情のバランスが逆転した時が怖い。(経験あり)


『恋』と『愛』の関係

「恋の最終形態が愛である」という言説がイマイチぴんとこなくなってきた。それはまだ恋だね、とか、それはもう愛だよ、みたいな言い回しが腑に落ちない。
恋は愛の下位互換?愛になれない恋はダメ?恋を経ないと愛にはなり得ない?

でも、私の中で恋はいつまでも恋のままだし、
愛は最初から愛としてそこに在る。


話し合った結果、「恋と愛は同時に存在し得るものであり、時間や関係性、己の考え方などの変化と共に両者のバランスが移ろっていく」の考えが最もしっくりきている。

理想のバランスとしては、恋:愛=1:9。
自分の場合、恋の比重が大きくなると狂う。
恋<愛の状態を保つと関係が長く続く。

愛が10になると悟りの域に行くか、完全なる傍観者へとなるため関係性を構築するまでに行きにくい。恋が持つ衝動が多少はないと関わりにいくという行動に移せない。
かといって恋が10になると身が滅ぶ。常に不安な胸中を抱え、つまらない憶測や都合の良い妄想ばかりが浮かび、そんな自分が気持ち悪くて嫌になり、でも辞められず、やがて依存になる。

その他、自分の恋愛観に関する所感

自分の異性に関するうっすらとした嫌悪感と苛立ち、及びそれらと同時に存在してしまう憧れや好意に関しては、家父長制と男尊女卑社会の風潮(特に性犯罪の軽視)、男性芸能人のオタクであること、学校の中での嫌な記憶辺りが主な原因だと考えていた。

けれど最近は、自分の父親も関係しているような気がしてきた。

私は父親のことが好きではない、どちらかといえば嫌い寄りなのだが、もしかして本当は父親のことを好きでいたかったのかもしれないと思い始めている。

ある程度の年になったとき(たしか小2とか)辺りで父が単身赴任となり、その後10年くらい離れての暮らしをしていたため、思春期のほとんどを共に暮らしていなかった。異性のいない家の中で過ごすのが普通だったから、同居が始まって数年が経った今でも家の中を少し窮屈に感じる。自分が男性との結婚とその先にある暮らしを前向きに想像し難いのは、ここに大きな要因があるのはまず間違いない。

母姉私で構成された女だけの生活を嫌だと思ったことは一度もない。むしろ最高。
けれどもしかしたら「思春期中、日常的に目にする異性親を疎ましく思う経験」は愛着形成に必要な過程だった可能性はある。

暮らす家が別れたから何となく、ではなく、歳を重ねる中でこちらの意思で父親に甘えることを辞め、異性として認識し、離れていくプロセスを自分は経験していないからかもしれない。

ただ、あまりにも今まで考えたことがなかったのでまだ見解は浅い。そんな家庭はいくらでもあるだろうし。他の要因の方が大きいと感じる。とはいえちょうど離れて暮らし始めたくらいに好きだった男の子への恋心が拗らせの始まりだったような気もする。考えすぎ?こじつけ?いやでも自分の意思が介在しない環境要因を完全に無視するのもいかがなものか。

恋愛について考える時、「恋≒性欲」「愛≠性欲」の式がずっと頭の中心にある。
この場合における「性欲」とは単にセックスしたい性的に触れたい等だけではなく、触れたい・抱きしめたい・そばにいたいのような軽いもの、いわば「人肌を必要とするもの」全般に対する欲を指す。

とどのつまり恋とは人肌欲しさから生じるものであり、イコール性欲なのではないか、という問いを2~3年考えているが、結論が出ない。己の性欲との向き合いがまだ足りないので、性欲との関連に関して書くのはここまでに留める。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?