不便益研究の体系的整理と将来発展可能性の考察 2021年 (Systematic literature survey of Japan’s research regarding Benefit of Inconvenience, 2021)
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1. はじめに
昨今のコロナ渦を背景に、我々の生活基盤や、生産と消費に関する社会文化システムの見直しが世界規模で求められている。日本においても、オンラインショッピングや食事宅配サービスへの需要増加、公的書類への捺印の省略や企業のテレワーク推進といった、日常生活から仕事まで、より効率的な生活様式のシステム化が進んでいる。他方で、外出自粛生活の中で家庭菜園を始め、自分で育てた野菜やハーブを食したり、出勤が苦痛であった会社員が、在宅勤務が数週間続くとオフィスへ出社したくなったりと、一見すると非効率的とも見える行動を志向する人々に関する報告も耳にする機会が増えた。
こうした状況下で、新たなデザインの方向性を示唆するものとして、不便益への注目がますます高まっている。不便益とは、「より多くの労力や時間をかけるからこそ得られる益」[1]のことであり、学術的開拓の余地と実務への貢献の両面から、更なる発展が期待されている。
しかしながら、不便益研究に関する俯瞰的な考察や、本領域における問題点の整理などは、未だ十分になされているとは言い難い。そこで、本研究領域においても、体系的かつ網羅的な総覧が望まれる。
2. 研究設計
2.1 研究目的
本稿では、下記の研究目的(RO)および副次研究目的(SROs)を設定する。
RO: 我が国における不便益に関する研究動向の把握
SRO1: 不便益に関する研究文献の体系的収集・整理
SRO2: 不便益に関する学識の俯瞰的把握
SRO3: 不便益研究の課題と発展可能性の提出
2.2 研究方法
国外のアカデミアのそれと比べ、我が国における体系的レビューの文化およびその方法論には発展の余地が残されている。そこで、Peters, Godfrey, Khalil, McInerney, Parker and Soares[2]の体系的文献レビュー(Systematic literature review)の手法を参照し、国内の主要ジャーナル検索データベースにおいて不便益に関する研究論文(文献)を収集する。次章で記述する手続きによって抽出および整理された文献を一覧にし、「不便益文献リスト」(巻末付録参照)を作成。リストにある文献のレビューを行い、これまでの不便益研究の動向について、俯瞰的な考察を行う。
2.2.1 文献収集に使用するデータベース
文献の収集(検索)には、国内における主要な学術論文データベースであるJ-Stage、CiNii、Google Scholarを用いた。複数のオンライン文献データベースを活用したレビュー手法は、デザインに関する新興の研究領域・研究テーマに関する近年の研究でも使用されている[3], [4]。
したがって、これらのデータベースを併合して活用し、かつ明確に検索プロセスを記述することにより、我が国における不便益研究動向の体系的な把握と将来発展可能性の考察の土台となる、網羅性と信頼性を高度に担保した不便益文献リストの作成が可能であると期待される。図1は、文献選定の全工程を示している。
2.2.2 文献検索条件
各ジャーナルデータベースにおいて、下記のカテゴリーに「不便益」ないし「Benefit of inconvenience」のいずれかを含む論文を抽出した。検索対象言語は、日本語と英語とした。また、J-Stageにおいてのみ査読の有無の選択が可能であり、査読ありの文献のみを抽出した。[1]
J-Stage:「論文タイトル」、「キーワード」、「抄録」のいずれか(OR検索)
CiNii:検索領域の指定なし
Google Scholar:「記事のタイトル」
結果として、J-Stage、CiNii、Google Scholarのそれぞれにおいて、“不便益”で17本、33本、43本、“Benefit of inconvenience”で14本、17本、23本の文献が該当した(合計147本)。加えて、Snowball technique(Snowballing)を用い、これらの文献の収集過程や引用文献などから、偶発的に発見した不便益に関する研究論文9本を加え、最終的に合計156本の文献が収集された。
この156本の中には、重複するものや内容が不適切な文献(不便益を扱っていない文献)なども含まれていたため、次節以降で絞り込みの詳細を記述する。
2.2.3 文献の絞り込み
収集された156本のうち、重複した文献が過半数程度あり、これらを除外して75本が残った。その中から、内容が不適当な文献8本を除いて、最終的に不便益文献リストに含まれる67本が残った。[2]
この内、現在(2021年11月11日時点)インターネットを通じて入手可能であった46本の文献が、今回のレビュー対象として抽出された。なお、PDFが入手できない文献は、ほとんどが学会の口頭発表に用いられた論文(カンファレンスペーパー)や、非学術雑誌(オンライン含む)に含まれる記事であった。
2.2.4 抽出された文献のカテゴリー分け
レビュー対象となる46本の文献(論文・論考・記事)を総覧し、KJ法を応用して近しい研究トピックやテーマ、視座を持つ文献同士をまとめていった(図2参照)。結果として、下記の研究テーマ・トピック別に統合された。
1)不便益の概念の発展(Ch 3.1)
2)「不便の効用」を「仕掛ける」視点(Ch 3.2)
3)不便益を活用したデバイス(Ch 3.3)
4)不便益と発想法(Ch 3.4)
5)不便益とコミュニティデザイン(Ch 3.5)
6)その他の不便益にまつわる研究(Ch 3.6)
各トピック・テーマ別のまとまりの中では、原則的にそのグループに属する文献を年代順にレビューし、研究テーマの発展を時系列で追う形でまとめている。
また、各グループにそれぞれCh 3.1〜Ch 3.6というグループ名を割り振った。これは、次章から行う分類ごとの文献レビューの節番号と対応している。
3. レビュー結果
3.1 不便益の概念の発展
3.1.1 不便益の創始
不便益という概念、および研究テーマとしての不便益の確立に関する文献が、Kawakami, Nishimura, Katai and Shiose (2009)[5]、川上 (2009)[1]、川上(2012)[6]、Kawakami (2013) [7]、川上 (2020) [8]である。いずれも、便利が無批判に追及されてきたシステムデザインの現場に、機能性の次元では測れない、ユーザーがより労力や時間をかけるからこそ得られる益が存在するという主張を根底に有している。
Kawakami, Nishimura, Katai and Shiose (2009)[4]は、不便益の概念に関する記述が初めて確認された文献である。Kawakami, Nishimura, Katai and Shiose (2009)[4]では、利便性追求に傾倒しすぎている現在(当時)のデザインシステムに対し、Donald NormanのEmotional designの概念を対比的に参照しながら、より労力や時間をかけるからこそ得られる利点を論じている。とりわけ、不便にすることで得られるメリットとして、Creative contribution(創造性の発揮)、Understanding of the system(システムへの理解)、Fostering self-affirmative feeling(自己肯定感の醸造)の3点を挙げ、Normanによるemotional valueを構成するヒトの脳の働きの3階層(Visceral level(本能レベル)、Behavioral level(意識レベル)、Reflective level(反芻レベル))と対比しながら、機能性のみでなく感情に訴求するデザインシステムの重要性を説いている。Kawakami, Nishimura, Katai and Shiose (2009) [4]では、システムデザインにおける新たな方向性としての萌芽的アイデアの提示が主であるものの、確認可能な最も古い不便益に関する論考であり、不便益という研究テーマを確立する先駆けである。
川上 (2009)[5]が、原著論文としては最初の不便益研究論文である。学問としての不便益のスタート地点とも言える、一読すべき一編である。Kawakami, Nishimura, Katai and Shiose (2009)[4]のアイデアを発展させ、不便であるからこそ得られる益に価値を見出し、問題解決を導くシステムデザイン論、すなわち「不便益のシステム論」としてまとめている。不便益システム論を設計支援メソッドにまでブレークダウン出来ていない点、「便利・不便」をいかに定義するかという点に発展の余地を残すが、不便がデザインの価値となりうる可能性を学術的に論じることによって、デザイン論に新規の方向性を示している。
川上(2012)[6]は、上述の不便益概念の知見を総括的にまとめた「不便の効用を活用するシステム」特集の総論である。特集号掲載の不便益事例の俯瞰や解説が主であるが、「対症療法として便利を足し算し続けてイタチゴッコを繰り返すのならば、一度引き算をしてみる」という視点や、「不便益によって安心感や楽しさ、モチベーションや自己肯定感をユーザーに醸成する“人依存の益”を見出せる」という視点が、新たな切り口を与える。
Kawakami (2013)[7]では、不便の概念(定義)と得られる益を体系的にまとめた上で、関連する認知心理学の既存理論および不便益を用いて行なった活動などの事例を紹介している。実証性や新規の知見には欠けるものの、認知心理学との対比により、不便益研究の学術的発展の面で示唆に富む。
川上(2020)[8]は、不便益の考え方や不便益の認定基準、研究動向を紹介しながら、不便の魅力について議論を展開した一般向け論考(記事)である。本記事の特筆すべき点は、「便利/不便」と「益/害」を直行させ、「不便益、便利益、不便害、便利害」の四つの次元を視覚化した点である。その四次元分類から派生したデザインアプローチについても紹介すると共に、「一見すると不便益のようであるが、実は不便益とは異なる事象」への注意喚起も、理由や具体的な認定基準を示しながら行っている。
3.1.2 定義と概念構造の検討
前節の「ある事象が不便益と見なされるか否か」という基準に象徴されるように、「不便」という概念の曖昧性ゆえ、不便益をめぐる言説や議論が多様化し、不便益の定義の困難さが明確化してきた。こうした中、西本(2019; 2021) [9], [10]は、不便益定義の再考、および再構築を試みている。
西本(2019; 2021) [9], [10]は、従来の不便益の定義の問題点を指摘し、1)複数目的存在の条件、2)追加作業の条件、3)作業量の条件という3つの条件に基づく不便益の再定義、および不便益システムのデザイン指針について検討している。換言すると、益は目的の達成によって得られる結果であると考えたとき、目的が複数あることを条件とし、主目的と二次的目的の重み付けや、複数目的達成のための要素作業の共通性、不都合性・作業量的な妥当性の導入を主張している。結論として、主目的と二次的目的を別々に実施した場合の総作業量と、両者を同時に実施した場合の総作業量の差分こそが不便益における「益」であるとしている。
前川(2020; 2021) [11], [12]では、不便から得られる“益”の種類と、それらの発生プロセスに関する報告がなされている。前川(2020) [11]は、不便から生じる益を、1)知識・能力の獲得、2)態度・人間力の獲得、3)楽しい・満足・幸福感の獲得に分類し、デザイン考案に新たな知見をもたらし得ると主張している。また、これらの益を得るためには二種類のアプローチがあると述べているものの、それらの性質や有効性に関する記述は十分とは言い難い。同氏は、前川(2021) [12]において、不便益アイテムである「素数ものさし」を被験者4名に使用してもらい、彼女らの観察とヒアリングから前川(2020) [11]と同様の結論を得ているものの、不便による“益”とデザインアプローチの開拓は、学術面からも実用面からも更なる発展が期待される。
3.2 「不便の効用」を「仕掛ける」視点
3.2.1 「労力を要する→自由が効く」という転換
Kawakami (2011) [13]は、ユーザーの省労力化を目指す便利なモノ・コトは、他方で本来生物としてユーザーが持つクリエイティビティや成長の余地を奪うことにつながるとし、川上・平岡 (2016) [14]は不便であることが人を動機づけている要因は、客観的な効力よりも達成感や有能感といった主観的な感覚が優勢であると述べている。両者は、それぞれ「便利の害」と「不便の効用」という真逆の視点に着目しながら、ヒトとモノのインタラクションに関して本質的には同じ指摘を行なっている。
また、Kawakami (2011) [13]はヒューマンインターフェイスデザインの指向性の新たな可能性について整理と考察を行い、「労力がかかる」という現象を「人の介入をより多く要する(requirement)」のではなく、「ユーザの自由が効く(allowance)」と捉えた。この発想の転換が、便利な社会システムの発展と共に抑制され続けてきたヒトのエネルギーを解放するデザインの可能性を開いたと言えよう。
3.2.2 不便益と仕掛学
「ユーザの労力を要するのではなく、ユーザの自由が効く」という見地に立ったとき、そのような行動システム(=不便益システム)をいかにデザインするかが鍵となる。その答えのひとつに、仕掛学がある。
仕掛学について総括的に論じた松村(2013) [15]によれば、仕掛けは人とモノと環境(状況や文脈も含む)との相互作用によって機能するため、本テーマは領域横断的な知見から成る。必然的に、仕掛けは人間活動のあらゆる場面に関わっており、したがって仕掛学とは、原理と応用領域が多岐に渡り、仕掛けをデザインすることは、すなわち社会を変えていくことにつながるのである。
松村(2012) [16]は“仕掛学とは、人の意識や行動を変える『仕掛け』によって社会的課題を解決することを試みる研究テーマである (p.710)”とし、仕掛学とその事例を紹介しながら、不便益との共通点や今後の研究発展可能性を議論している。これに対し川上 (2013) [17]は、人の心理的側面から、ユーザの投機的行動(=ちょっと試してみる)を許すという不便益の特性に加え、その行動を促す仕掛けの重要性を説いている。また、川上 (2013) [17]はでは人を何らかの行動に向けて動機付けるものを仕掛けと捉え、動機付けの分類やノウハウを提示している。不便益と仕掛学に関する特別講演の記録である川上(2012) [18]は、テクノロジーによって画一化された現代において、仕掛けられた不便は人々に工夫の余地を与え、個性を生みだすと述べている。
3.2.3 工夫の余地を仕掛けることの罠
“工夫の余地”を仕掛けるという点に関し、影山(2017) [19]は、人間の本質的な豊かさのためには、情報・時間・行動の「思考の余白」がもたらす価値、すなわち「考えること」を省略させないデザインが重要であると主張している。ただし、影山(2017) [19]の研究設計と論文構成は学術的とは言い難く、情緒的な論旨として読むべきである。
川上(2019) [20]では、不便益は個人の主体性を引出し、前後のネットワークにおいて対象のQOLを向上させるとしている。主な内容は事例および既存の不便益研究の知見の紹介であるため、新規知見は見られない。
不便を仕掛け、個性の発揮を促すという見地を根底に据え、教育におけるゲーミフィケーションを不便益的発想から捉え直したのが杉谷(2020) [21]である。学習における目標提示、その達成のための手段の自己選択と工夫の重要性が明示されている。また、不便益の観点から既存の事象・現象の捉え直すという点では、中西,岡村&行實(2020) [22]はスポーツの持つ文化的意味について再考を試みている。
しかし、杉谷(2020) [21]も中西 et al. (2020) [22]も、学習やスポーツにおけるルールはそもそも不便ではなく、それらがないと成立しないものであり、不便益に見られる特徴を部分的に付与してしまった感が否めず、果たしてこれらが不便益と認められるかという問いに一考の余地を残す。この原因は、“(個性を発露する)自由度の許容”と“誘因の仕掛け”を逆説的に解釈してしまい、不便益のラベルを後付けしてしまった点にあるのではないだろうか。
3.3 不便益を活用したデバイス
3.3.1 スマートフォン・ウェブアプリ
田中&仲谷(2011) [23]は、詳細な地図情報を制御した(現在地を示さず出発地・目的地・ランドマークのみを表示した)「新しい観光ナビ」を用い、偶然の出会いや自然・地域とのふれ合いを誘発させ、ユーザーの観光体験をより感動するものにする散策型観光を推奨した。ただし、学会予稿である田中&仲谷(2011) [23]では、実証ケースの効果測定が曖昧な点に限界点を残している。また、仲谷(2012) [24]および仲谷, 北村&泉(2017) [25]よって、精微な実証データによる本内容の詳細な報告がされている。
荒木,川上&平岡(2015) [26]では、不便益を得るユーザ特性を明らかにすることを目的とし、「習熟を妨げず能動的工夫の余地がある不便」を搭載したスマートフォンの利用実験を行った。結果として、不便益を得た参加者には、1)日常的に感じている有能感が高い、2)スキルが特定の範囲内に収まる、3)課題のない状況に対する動機付けが低いという3つの特性が観察された。さらに、1)と2)の特性を持つ人は「楽しいと感じる」益を、2)と3)の特性を持つ人は「自己のパフォーマンス向上を高く評価する」益を得るという仮説が導出された。ただし、本仮説は一般性の高い設計指針への活用に耐え得るものではない点が、限界点として挙げられている。
佐藤, 小縣 & 木谷 (2017) [27]は、苦労の末の達成感や悔しさによるモチベーションの維持など、マイナス体験から得られる価値の存在に立脚し、学習アプリを用いた実験から時間的制約がユーザの作業効率を高めるという結論を導いた。ただし、実験プロセスと結果の描写が乏しく、佐藤, 小縣 & 木谷 (2017) [27]の研究内容の信頼性は吟味の必要がある。
Shigaki and Yoshino (2018) [28]では、情報量を絞って見せる災害マップの開発と検証が行われた。あえて表示する情報をユーザーの周辺環境に絞ることにより、限定的な範囲(そのユーザーにとって必要な範囲)の情報に注意が向くように仕向け、情報過多で本来果たすべき機能が失われているマップよりも、こちらのマップの方が実質的に有用であると報告されている。不便益とは少し異なるベクトルとも捉えられ、更なる検証や議論が必要だろう。本アプリは、本質的には(情報)“量”を絞ることによるユーザー認識の“質”の向上を図っていると言えよう。
3.3.2 運転システム
平岡(2012) [29]では、不便益システム設計論に沿ってデザインされた間接型運転支援システムに関する知見をまとめている。本運転支援システムは、ドライバが自ら運転行動を意識的に変える「手間」を要求する。これにより、ドライバはさまざまな運転を試すことを通じて、安全運転に習熟すると共に、運転技能をアップしていく中で自己肯定感や楽しさといった主観的な益を得る。
平岡, 野崎, 高田, 塩瀬 & 川上 (2013) [30]では、2つのエコドライブ支援システム(EDSS)を用いて、それぞれが省燃費運転の習熟に与える影響を検証するとともに、不便益の能動的工夫との関係について考察している。直接型EDSSよりも間接型EDSSの方が運転者の省燃費運転の習熟に与える影響が大きく、かつ試行錯誤の余地があることから主観的な益を得やすいため、望ましいシステムとしている。また、省燃費運転技能を習熟させる前段として、ドライバの動機づけに関し、「不便な間接型EDSSは、便利な直接型EDSSよりもエコドライブに対する動機づけに有効である」という仮説を支持する結果が野崎, 平岡, 高田, 塩瀬 & 川上 (2013) [31]により報告されている。
3.3.3 その他のデバイス一般
Okabe and Umezaki (2010) [32]は、ライターのロック解除などにひと手間をかけさせること(=不便にすること)で、不意な作動や動作を抑制して安全性を向上させるような新しいデザインシステムを提案している。新規知見はあまりなく、論考の体である。
川上, 半田&阿部(2012) [33]は、構音障害を持つ人々に利用される音声合成装置において、システムの入力方法に不便を導入することで、アウトプットされる音がユーザのスキルに応じて変化する音声合成システムの開発について報告している。コミュニケーションを個性の発露と捉えると、画一的かつ機械的な便利追求だけでなく、ユーザの身体能力や個性を反映した習熟の余地を与えるようデザインする必要がある。加えて、不便益に基づいたデザインを行う際は、便利を追求するよりも一層センスが問われるタスクを背負うことになると述べられている。ほぼ同じ内容で、本音声合成システムユーザの習熟度や習熟プロセスに焦点を当てた実験報告が、川上&平岡(2016) [34]である。
本吉(2012) [35]は、機械と人がそれぞれテンポ調整を行うメトロノームについての比較研究・開発報告である。従来の機械式メトロノームは,物理指標であるテンポ値を直接調節するために、演奏テンポ同期操作が却って難しくなっていた。他方で、新たに開発されたスティック型メトロノームは、楽曲に合わせてユーザ自ら動作テンポを調整することを求められ、結果的に効率的かつ精度のよいテンポ調整を可能とした。また、指定テンポ調整にかかる手間は、ユーザのテンポ感育成のきっかけや自らのテンポ感を試す楽しみを生む可能性を示した。
3.4 不便益と発想法
不便益システムの構築においては、便利追求という既存フレームからの脱却、ないしリフレーミングが前提(重要)となる。この価値の再発見の方法論に関し、塩瀬,川上&平岡(2012) [36]は、プロダクトやサービスの極端な利用方法を浮き彫りにするエクストリームユーザーを招いたデザインワークショップやブレインストーミングの中で、アイデアに極端な条件設定を課す質問を投げかける事例を通じて、極端思考による発想の広げ方を紹介している。ただし、極端な条件設定を逆に活かして価値を見出すという発想は、アイデアを広げる有力な思考の技法であるものの、直接に解の妥当さを担保するものではない、という筆者ら(塩瀬,川上&平岡)の指摘には留意したい。
Naito, Kawakami and Hiraoka (2013) [37]は、TRIZ(発明的問題解決理論)の方法論を参考にし、不便な事例をより多く集めて分析することで、デザイナーの発想を助けるための不便益的発想支援ツール(支援メソッド)の発展を目指した試論的な一編である。ただし、TRIZそのものの説明がほとんどないため、簡潔な説明があった方がより理解しやすい論文になったと思料される。
内藤, 川上 & 平岡 (2013) [38]は、TRIZの発明の方法論に基づいて不便益システムを分析し、その設計支援方法を検討した。既存の事例から、1)不便益を得る方法を抽出・抽象化した「不便益原理」の作成、2)「便利になったこと」と「損なわれた益」のトレードオフという枠組み(=便利害)の設定、3)便利害から不便益原理を辿ることのできる「不便益マトリックス」の作成が行われた。この研究は探索的な試みであり、分析事例を増やし、支援システムを構築することを今後の発展課題、および発展可能性として締めくくられている。
これを受け、不便益の発想支援システム構築とその評価実験を行ったのが、川上, 内藤, 平岡 & 戌亥 (2013) [39]である。10代~20代の男女60名が参加した実験結果から、手間を惜しむか否かというユーザの態度によって、内藤, 川上 & 平岡 (2013) [38]が提案した不便益発想支援システム構築の手法は、そのパフォーマンスに差が生じると報告されている。
Hasebe, Kawakami, Hiraoka and Nozaki (2015) [40]は、不便益システムをデザインする手法として、発想を手助けする(アイデア数を増大する)不便益カードを提案している。不便益カードは、不便にする手段を示す12枚の原理カードと、不便の結果として得られる益を示す8枚の益カードから構成されている。実験の結果、不便益システムを検討する発散的思考・拡散的思考(divergent thinking process)において、原理カードはアイデアの数を増大させる効果が見られた。システムデザインの理論的考察や、工学設計の実験に関する論文が多数を占める不便益研究において、不便益の概念を社会実装可能レベルの具体的な手法として提示し、その一定の効果を実験により確認している点に、Hasebe, Kawakami, Hiraoka and Nozaki (2015) [40]の価値はある。
上記4つの、Naito, Kawakami and Hiraoka (2013) [37]、内藤, 川上 & 平岡 (2013) [38]、川上, 内藤, 平岡 & 戌亥 (2013) [39]、Hasebe, Kawakami, Hiraoka and Nozaki (2015) [40]の内容を統合的に研究した成果が、Hasebe, Kawakami, Hiraoka and Naito (2015) [41]である。この論文は、発散的思考・拡散的思考(Divergent thinking)の支援ツールとして、TRIZ(発明的問題解決理論)を応用した不便益カードを提案している。実験の結果、ブレインストーミングにおける不便益カードの使用は、不便益デザインに関するアイデアの数を増大するという成果が得られた。ただし、不便益カードの概念がMECEになっておらず、本カードとその構築プロセスには改善の余地がある。しかしながら、Hasebe, Kawakami, Hiraoka and Nozaki (2015) [40]の特筆すべき点は、不便益、便利害、不便害、便利益の四象限による不便益を達成するための方向性モデル、およびターゲットデザインから不便益デザインへとコンバートするためのプロセスモデルが、理論的に示されている点にある。
以上より、不便益を具体的なデザイン原理に落とし込む試みが、ここ10年ほどで行われている。他方で、不便益が主に研究されている工学や情報工学においては、既存の理論やモデル、仮説を「検証」することに主眼が置かれている。そのため、新たな原理や理論、モデルの構築を目指す方法論を扱う社会科学の知見(「開拓的・探索的研究(定性的研究)」)も合わせて援用することで、不便益のデザイン学的な発展が加速すると期待する。たとえば、Eisenhardt (1989) [42]の定性的理産出方法や川喜田 (1967) [43]の探索的モデル構築手法(KJ法)などは、本領域の更なる発展に寄与すると思料する。
3.5 不便益とコミュニティデザイン
川上(2012) [44]は、事例紹介を通じ、不便益と共創・コミュニティデザインの相互発展可能性について考察を行った論考である。不便益の本質は、モノのデザイン(人間−機械系)を通して生じるコミュニティの創発というコト(人間−人間系)をデザインすることにある。換言すれば、それはデザインされたシステム(モノ・コト)の多様な関係性の中で、部分的な最適解を求めることへのアンチテーゼである。このように、川上(2012)の意義は、「場」における集団的な気づきや連帯感の創出プロセスである“共創”の観点から、不便益を捉え直した点にある。
吉木&須藤(2015) [45]は、流通機能や交通網の弱体化によって日用品の買い物が困難な状況に置かれている人々が増加しているFood desert(FDs)問題について、既存の解決策に加え、不便益の効用を考慮した持続可能性のある解決策の必要性を考察し、そのモデル化を試みている。ただし、1)FDsの不便益施策モデルにも関わらず、不便益の知見の反映が浅薄な点、2)コストが度外視されている点、3)研究問題、研究方法、結果と結論が曖昧な点から、将来研究への試論だと推察される。しかしながら、コストのみが重視される既存の解決策に対し、不便益を施策の検討要素に加味した点は、新たな視点である。
太田, 長谷川 & 小池 (2019) [46]は、中心市街地活性化の企画に不便益を取り入れた事例を紹介している。2017年、2018年にまち歩きイベント(=調査)を実施し、イベントに対する参加者のアンケート調査を統計解析し、「ある程度の制限を与えられた自由」の中での商店街散策と食事スポット選定が、商店街への愛着、満足度、および再利用意向を高めると報告している。なお、太田, 長谷川 & 小池 (2019) [46]においては、不便益に定義に照らし、散策ルートと食事スポットに制限があることを意思決定の労力が減少されるという観点から「便利」とし、自己選択の労力を要するという点で、ルート・食事場所の選択の自由度が高いことを不便と捉えている。しかし、制限があることの方に不便を感じる人も多いのではないだろうか。今後の課題として、不便と便利の概念の更なる検討が必要だろう。
3.6 その他の不便益にまつわる研究
Kawakami and Hiraoka (2013) [47]は、「人工知能(AI)はbeneficial inconvenientを理解し、ヒューマンインタフェース(HI)の新たな余地を開拓できるか」という問いに挑戦している。筆者の体験や主観的考察が散見する小論文(conference paper)であり、相互補完的で調和の取れた現状のAIとHI研究の関係性に不便益という視点がどのようなインパクトを与えうるかという問いかけで締め括られている。
宮田(2018) [48]は、手紙をモチーフとした小説2篇、評論、アート作品の4つの事例を取り上げ、不便益の観点からコミュニケーションツールとしての手紙の価値について考察を行った。1)送り手の存在イメージを保つような表現の多様性(紙、ペン、インク、文字など)、2)手紙の存在感を高める「時間がかけられている」という価値、3)贈り物として受け取られ、簡単には捨てられないストック性から、SNSやメールには代替され得ない手紙の独自性を主張している。しかし、上記の特性や議論の内容が、筆者の主観や感想に依拠する部分が多く、また不便益と本論の趣旨の関連性が不明瞭である。筆者自身も川上(2012) [44]を研究ノートとしているように、今後の研究のための構想段階だと言えよう。
Nishiyama and Sawaguchi (2019) [49]は、不便だからこそ得られる益があると考えているかを調査するアンケートを、大学生と社会人に対して行なった。両グループの回答を比較し、不便益の考え方は留学生のキャリア教育に有効であると主張したいように見受けられるが、アンケートの設問がたった2つである点、誘導的である点、探索的な調査にもかかわらずyes/noでの回答である点から、得られたデータの有効性およびキャリア教育への示唆には疑問が残る。
Shigemoto and Kawakami (2019) [50]は、意味のイノベーションを不便益の観点から捉え直し、今後の研究発展の課題と可能性を提示することを試みている。これまでの不便益の概念(不便益に関する定義)を見直して整理した上で、有用価値と感性価値の視点を導入することで、意味のイノベーションが弱さを抱える研究の客観性と厳密性に対しての突破口を模索している。論旨が詰め切れておらず、全体構成の一貫性に欠けるものの、異なる学術領域で扱われてきた不便益と意味のイノベーションを初めて併せ論じた点に、Shigemoto and Kawakami (2019) [50]の意義はあると言えよう。
小孫(2020) [51]は、1)小学生のための不便益の教材内容の明確化、2)大学生の不便益に関する経験の明確化、2)不便益の教材開発・指導案作成の授業実践から得られる大学生の学習効果の検討を目的とし、小学校教員免許状の取得を目指している大学生282名を対象に、アンケート調査と授業実践を行った。1)、2)については、自由記述回答のアンケートデータに対し、共起ネットワーク分析を行っている。3)の授業実践の研究方法は、不明瞭である。結果として、「手紙を書く」、「自分で考える」、「本で調べる」、「紙の辞書で調べる」、「筆算で計算する」という教材内容が必要であると大学生が考えていることと、彼ら・彼女らがこれらと同内容の経験(=不便な経験)から益を認識したことがあることが報告されている。これらの結果から、「これまでの教育課程においても不便益に関する要素が位置付けられていたことが分かる(p.30)。」と結論づけられているが、これは現象の説明が逆になっているのではないか。つまり、不便益に関する要素が教育に位置づけられていたわけでなく、これまで当たり前に行われてきた実践の優れた点が見直され、闇雲なAI導入や便利化をすべきではない要素が、不便益という視座によって再認識された、という表現の方が適切ではないだろうか。
また、不便益の授業実践から、子ども達自身に工夫させることの重要性を大学生が認識していることが明らかになり、授業実践が大学生に対しても学習効果があったとの結論に対しても、授業を受ける生徒(小学生)側の調査無くしては、この結論を導くのは危険だと思われる。そもそも、この調査には1)小学校教育に不便益を組み込むことの重要性、2)教員志望の大学生に授業実践がもたらす学習効果という2つの異なる研究テーマが混在しており、それぞれのテーマに対して、一貫性を担保した研究方法と結論が適用されるべきである。先述の言説データへの共起ネットワーク分析の調査も併せ、小孫(2020) [51]は研究目的、研究問題、研究方法が噛み合っておらず、是非とも研究設計の再検討を期待したい。本研究のアイデアの潜在性と執筆にかけられた労力に対しては、敬意を払う次第である。
4. 考察・議論
ここまで、1)不便益の概念の発展、2)「不便の効用」を「仕掛ける」視点、3)不便益を活用したデバイス、4)不便益と発想法、5)不便益とコミュニティデザイン、6)その他の不便益にまつわる研究、という6つの枠組みごとにレビューを行った。
その中でも、「1)不便益の概念・定義」の内容は、程度に差はあるものの、研究の前提としておよそどの論文でも言及されている。他方で、不便益が発展途上の研究テーマであるがゆえに、各論文によって不便益の捉え方に(微細な)差異が見られ[10]、したがって事例研究やシステム開発など、上記2)〜6)の論文の内容にも影響を及ぼしている場合も少なくない。
この点に関し、西本(2019; 2021) [9], [10]も不便益の定義の曖昧性と不便益システムのデザインの発展可能性に関して類似の問題意識を有しており、したがって不便益の概念整理に関する最新の考察である西本(2021) [10]は、より精緻な不便益の定義を試みている。そこで本稿では、西本(2021) [10]で議論されている不便益の捉え方に関し、同稿で見落とされている点について、不便益に関する研究論文を総覧した知見をもとに発展的に論じていく。
とりわけ、本稿の議論では、不便益の客観的な捉え方と主観的な捉え方に焦点を当てる。西本(2021) [10]は便利・不便および益・害の客観的および主観的な認識の必要性について言及した上で、工学的には取り扱い難い主観的な益の認定を排除されるべきものであるとし、より客観的な定義に関して論じている。しかし、“ヒトがどのように感じるか”という視点は、工学領域においては認めることや取り扱いが困難かもしれないが、人間そのものや人間社会を対象とする社会科学系の学問においては、主となる視座である。
したがって、ここに学祭領域であるデザイン論の中で不便益研究が今後の発展や広がりを見せられるか否かの可能性が眠っているのである。そこで、前章のレビュー結果に加え、次節以降では不便益の概念に関して発展的な考察と議論を行う。
4.1 今後の課題 – 不便益の評価方法をめぐる議論
4.1.1 不便益の認定基準 – より客観的な定義のため、「副次目的の存在」から「副次益の認知」への移行
西本(2019; 2021) [9], [10]は、川上(2009)[5]による原初的な不便益の定義(「より労力ないし時間を要する状態から得られる益を不便益とする」)に立脚した上で、不便益を認定するための条件として「主目的および副次目的の存在」を挙げている。これは、主目的達成の過程において許容可能な不便を追加し、副次目的を併せて達成することで得られる益が不便益と見なされる、という考え方である。
しかし、西本(2021) [10]が目指すより客観的な不便益の認定を促進するのであれば、この「主目的および副次目的の存在」は、「主目的達成のプロセスにおける主益および副次益の認知」と置き換えられる必要がある。なぜなら、主目的達成の過程において客観的な副次益が得られる際、行為者は必ずしも副次目的を認識している必要がないからである。
例えば、「建物の5階に行く」という主目的のために、エレベーターよりも労力と時間を要する階段を使った場合、筋力増加や健康促進、適度な運動による思考の明確化といった副次的な益が得られるだろう。ただし、こうした効果を意識的に目的と設定して行動する人々が、果たしてどれほどいるだろうか。
すなわち、“観察者視点から認められる副次目的”は、必ずしも“行為者視点において意図的に目的とされている”という保証はないのである。したがって、副次目的の存在という視点で不便益の定義を論じてしまうと、客観的に捉えることができる副次益が発生していたとしても、それを不便益と認定することが不可能となってしまうケースが発生しうる。
加えて、副次目的とは、副次益に対して付随的に発生するものだと考える方が妥当だろう。副次益が得られる行為を行為者が目的として認識した時、初めて副次目的が発生しうる。すなわち、副次目的とは行為者の意識(意図)なくしては発生し得ないのである。したがって、順序としては主目的を達成することで得られる主益、および副次益(これが不便益)が存在し、付随的に副次目的が認知される。もしくは、副次目的は認知されることなく、行為者は無意識に副次益を享受している状態となる。
4.1.2 不便益の量 – 主目的達成の切実性に対する主観的認知レベルの客観的把握という課題
西本(2021) [10]は、不便益が得られる際の、不便の量的な把握も試みている。他方で、益の量的な把握に関する記述はあまり見られない。不便益を活用したデザインを考える上で、どれほどの不便をユーザが感じるか(=どれほどのコストを支払うか)と並び、どれほどの益をユーザが享受できるかは重要な課題である。その際、西本(2021) [10]の議論の中では言及されていない、主目的の達成がどれほど切迫かが今後の検討課題となる。
つまり、不便益の量を考える上で、主目的を達成できなかった場合の害(損失)を行為者がどれほどのリスクと認識しているかで益の認知が変わると予測される。例えば、仲谷(2012) [24]は目的地までの情報に制約を課せられた不便益観光支援ナビが、道中の予期しない発見や出会いの機会を発生させ、ユーザーから好意的な反応(=不便益)が見られたと報告している。
しかし、本実験に「市街観光を行なった後に新幹線で帰路につく」という条件が設けられていた場合、新幹線を逃すことによる経済的・時間的な害(損失)の潜在的リスクが、道中の楽しみや驚きといった好意的反応を低減させることに繋がるのではないだろうか(新幹線を逃せば、経済的、時間的、精神的な害も発生する)。したがって、主目的の達成・未達成により発生する益と害も考慮に入れた上で、プロダクトやサービスを含む、システム全体のデザインを設計する必要がある。
この主目的達成に対する切実性の主観的認知レベルは、“ユーザが感じる益(主観的な益)”の増大に影響を及ぼすだろう。この点を、主観的という理由だけで排除するのは、研究テーマとしての不便益の広がりを妨げてしまうことを懸念する。システムの客観的な理解と並行し、主観的なユーザの態度をどのように理解していけるのかという観点が、これからの不便益研究に求められていると本稿は主張する。
以上の点を鑑み、不便益研究が今後取り組むべき課題のひとつは、便利・不便や益・害の主観的な認知をどのように計量化するか、もしくは一定の科学性を担保して理解するかという命題ではないだろうか。この点は心理学者の領分だと心得ており、したがってより多くの心理学者が不便益研究へと参加することを願う次第である。
4.1.3 不便益の質 – 労力と時間のトレードオフに対する主観的リスクの検討
先ほど事例として提示した仲谷(2012) [24]による観光デバイス実験は、不便益をよりよく理解し、発展させるためにもう一つ重要な示唆を持つ。それは、労力と時間のトレードオフに対するユーザのリスク許容度の検討必要性である。簡潔に言うと、時間的余裕が心理的余裕につながり、これが主観的な益に影響を及ぼすと思料される。
例えば、「限られた時間内での目的地到着」と「道程を楽しむという行為」は、時間的制約という観点からトレードオフの関係にあると考えられる。不便をより労力ないし時間がかかる行為と見なしてきた不便益であるが、これまでは主に労力に視点が注がれてきた。しかし、労力が心理的・精神的労力も包含し、また益の主観的認知が今後の課題となるのであれば、不便益デザインの実用的な発展を希求する上で、時間的なベクトルは無視できないだろう。しかし、この時間の影響への考慮は西本(2021) [10]には見らない。また、労力と時間を併せて論じた視点が見受けられる論文は、影山(2017) [19]と佐藤, 小縣 & 木谷 (2017) [27]のみである。
したがって、「(身体的・心理的)労力を要すること」または「時間を要すること」を不便の定義とする中で、労力と時間の関係性(相互作用性など)に関する議論が闊達になるべきである。例えば、先ほどの仲谷(2012) [24]の不便益観光ナビの事例に関して具体的に言えば、例えば目的地到着までに異なる制限時間を設けられたグループによって、不便益観光ナビによる旅程に対する反応はどのような差異があるかといった実験が考えられるだろう。
4.2 学際領域であるデザイン学として、不便益が発展するために
前節までの議論から、不便益は労力と時間、および益・害の評価方法に関して伸び代を残していると言えよう。したがって、どのような行為・状況にどの程度の不便さ(労力や時間消費)を感じ、どのような益が見出されているのか、といった評価方法の発展が望まれる。とりわけ、主観的な評価(把握)の方法である。
この点に関し、これまで不便益は主に定量的仮説検証や実験などを主軸とする、制御工学と情報工学領域において研究されてきた。今回レビューした論文においても定性研究はあまり見られず、また数少ない定性研究についても、データの収集方法や分析方法、および研究の手続きの記述に不明瞭な点が見られるものが多かった。したがって、不便益の概念考察や事例研究、不便益原理の構築などにおいて、各論文の主張や仮説を検証に発展させるための方法論に脆弱性を残している。
また、本文献リストで明らかとなった、不便益に関する最初の学術論文である川上(2009)[5]は、2009年当時の(日本の)ものづくりの傾向として、提示された問題の解決策を具現化する対症療法的な(エンジニアリング)デザインになりがちであると捉え、「問題そのものに対する価値判断」が重要であるとしている。この価値そのものの判断、すなわち既存の価値フレームワーク内での検証ではなく、価値フレームワークそのものへの批判的かつ発展的な視座が重要であり、それが不便に益を見出すというパラダイムシフトから誕生した不便益の本質ではないだろうか。
したがって、第3.4章の末文でEisenhardt (1989)[42]や川喜田 (1967) [43]にも言及したが、ユーザーの行動や態度から理論構築・モデル産出を試みる方法論や、問題自身の価値評価に関する洞察を領分としている社会科学領域の知見も、今後の不便益研究には広く適用されるべきだろう。そうでなければ、川上(2009)[5]が警鐘を鳴らすように、即時的な問題解決メソッドによる対症療法的なエンジニアリングデザインが溢れ、中長期的な視座での問題定義・解決のメソドロジーとしての不便益デザインを生み出すことは困難だろう。
したがって、近年はデザイン学領域でも注目され出している不便益に対し、もっと広く社会科学領域の研究者の参画が望まれる。既往の不便益事例研究に立脚し、学際的な視座から定性的・定量的研究の両方が行われれば、より強固なモデル構築や理論産出が期待されると共に、今後のデザイン研究・実践に大きく寄与する潜在性を持つと期待する。
5. まとめ
本稿では、1)不便益に関する研究文献の体系的収集・整理、2)不便益に関する学識の俯瞰的把握、3)不便益研究の課題と発展可能性の提出を目的とし、J-Stage、CiNii、Google Scholarにおいて、不便益に関する研究論文(文献)を体系的に収集・整理した「不便益文献リスト」を作成した。日本人研究者による不便益の文献は67本が確認され、その内46本がPDFで入手可能であった(2021年11月11日時点)。2005年の学会発表で初めて不便益が紹介され、2009年に最初の学術論文が出版、その後2020年まで、不便益に関する論文の出版数は徐々に増加している。
また、収集された文献を1)不便益の概念の発展、2)「不便の効用」を「仕掛ける」視点、3)不便益を活用したデバイス、4)不便益と発想法、5)不便益とコミュニティデザイン、6)その他の不便益にまつわる研究にカテゴリー分けしてレビューを行い、これに基づいて不便益の捉え方、評価方法、これらを可能とすると期待される方法論についての発展的考察を行なった。
全体の傾向として、ここ15年間で注目を集めだしている不便益であるが、現時点では新たなデザイン研究・実践の「視座」に留まっており、研究テーマとしての発展可能性の更なる追求が望まれる。
とりわけ、工学領域において発展してきた不便益が語られる“デザイン”の語義に、設計という考え方が色濃く残っているように見受けられる。そのため、過度な客観性追求に陥ってしまいがちで、ヒトや社会をあるがままに捉え、ユーザにとって喜ばしい成果のために全体感の調和を図るという、human-centred designの肝要な思想が抜け落ちてしまっては仕方がない。
人間の感性は画一的ではないし、社会の動きはしばしば非合理的なのである。こうした視点を排除し、部分最適しか目指せない結果が、今の日本のデザイン研究、教育、産業の国際的地位に現れていると言えるのではないだろうか。科学における厳密性の追求はよい。しかし、そうではないベクトル、すなわち価値フレームワークそのものへの批判的視座を忘れたデザイン議論の向かう先は、ヒトを無視した設計思想であり、ヒトを排除した研究やデザインに意味はない。
1と0の二元論ではなく、グラデーションの淡さを許すのが、日本的感性の特性である。不便益の発想にもそうした感性が見て取れ、便利が不便になったり、益が害に転換したりと、同じモノ・コトでもコンテクストが変われば変化する。こうした日本の感性に対し、善悪の二元論的な合理主義に立脚する欧米のデザイン論には、「わざわざ不便にする」という発想が希薄であり、したがって不便益は世界のデザイン研究にとって意義深い、我が国に固有の着眼点であると大きな期待を寄せている。
5.1 本稿の貢献と限界点
本稿で提出された不便益研究文献リストは、体系性、網羅性、再現性の観点で、今後の同テーマの研究における先行研究レビューに貢献するものと期待される。他方で、本レビュー(不便益リスト)に関して、下記の限界点を認める。
1. 書籍がカバーされていない
2. 日本人研究者以外の研究がカバーされていない
1点目に、先述したように、本稿では文献リストから書籍は割愛した。しかし、不便益システム研究所のHP[53]からも見て取れるように、本テーマはこれまで書籍として出版されて来た部分も多い。それでも、学術的テーマとしての発展が望まれる価値ある研究テーマであるがゆえに、研究論文データベースを用い、厳正な選定プロセスによって抽出された文献のみを取り扱うこととした。
2点目に、今回の調査は日本における不便益研究の体系的整理を目的として開始したため、ScopusやWeb of Scienceなどの英文ジャーナルデータベースは使用しなかった。逆に言えば、これらのジャーナルデータベースを用い、今回と同じ調査を行うことで、不便益に関する世界的な研究動向の調査が可能であるという点を、将来発展可能性として示しておく。
上記2点の限界点はあるものの、本研究で提出した不便益文献リストは、今後の不便益論文の先行研究レビューをより網羅的なものにできるだろう。この点を研究の意義とさせていただきたく、本稿が不便益研究に従事する方々の一助となれば幸甚である。
[1] 3つのデータベース間において、キーワードが含まれる領域が異なるのは、それぞれのデータベースの仕様に依る。
[2] 除外された不適当な内容の文献とは、“不便益”という語が「不便から得られる益(Benefit of inconvenience)」の意ではなく、「便益ではない(Non benefit)」の意味で使用されていた文献や、抄録・要旨などにinconvenienceという単語があるのみで、不便益とは無関係の内容の文献であった。また、本稿の目的である学術的な動向把握の趣旨に則り、今回の研究では書籍も内容不適当として、除外対象とした。
2023年現在 追記
これは、2021年に書いた論文である。
2021年以降のデータについてはカバーされていないが、
それでも不便益という研究領域を開拓する上で誰かの助けになればと願う。
最後に、当時本研究を手伝ってくれた学生諸君、感謝している。