#8 型と箱 – デザインと教育の蜜月。あるいは日本と世界を隔てるもの。
KJ法と感性工学を接合して形作られるデザイン思考2.0。この一連のプロセスにおいて、実のところ3つの創造が行われている。1つ目が、形而上学的な混沌から始め、知性的(理性と感性)に認知可能な問題構造を作り上げる営み(KJ法の領域)。2つ目が、知的に認知可能な問題構造を受け継ぎ、それに対する形而下学的な解決策の概念構造を作り上げる営み(KJ法と感性工学の領域)。3つ目が、導出された解決策の概念に物理性を与え、製品やサービスという五感による触知可能な成果物を作り上げる営み(感性工学の領域)である。
そして、感性工学の本質はabduction(発想力)である。だからこそ、KJ法の鍛錬が必要なのである。感性工学は、探索の方法論ではない。検証の方法論である。したがって、正しい結果が出るような仮説を立てられる発想力(abduction)、結果からまだ見ぬ改善点を生み出せるabductionが必要なのである。そして、abductionの力とは、自然界と人間社会への観察眼、理系的知識、文系的知識、論理的推論、直感的推察を総合的に用いて、何よりも身体と頭でwicked problemに挑むことでしか培われない。
それにも関わらず、今の日本の教育では、問題の前に答えを与えられる。つまり、自分が問題を問題と認識する前に、やり方という箱に押し込められるのである。しかも、教える側もその箱のことを何も知らない。上から流されてくる箱を持って、芽吹こうとする若いエネルギーを押し殺すだけである。今の程度の役割であれば、教師なんかほぼ全員AIとロボットにしてしまって差し支えない。答えを見せた後で問題文を読ませることに、一体何の意味があるのだろうか。人間が自ら考える余地がない。自分で間違える余地がない。それはつまり、身体の経験として人間が創造的になる機会の略奪を意味する。成長する機会を、奪われているのである。
こうした没落する日本の現状を受けてかどうかは知らないが、最近はリカレント教育やSTEAM教育なる流行言葉も謳われている。その上で、わざわざ分かりにくい輸入言葉を使わずとも、この一世紀のあいだに、桜沢氏と川喜田教授はこの教育思想と教育方法論を当たり前に持っていた。長町教授も、教育という文脈で書き残してはいないが、彼のデザイン実戦の根底には同じものがある。それにも関わらず、なぜ我が国の先人の知を振り返る事なく、なぜ現場(日本)の状況に根差して作り上げるのではなく、数千キロも離れた社会も文化も大きく異なるアメリカや欧州で流行っている概念の上に、我が国の教育政策を盲目的に貼り付けていくのだろうか。ナンセンスである。
もう一度いう。示すべきは、破っていくべき型である。決して箱に嵌め込んではいけない。しかも、極めて短絡的で矮小な箱に。迷って、困って、考えて、渇望して、その先で初めて型というひとつの答えを差し出されてこそ、力となる。本来的には、子供たちは、青少年たちは、若者たちは、自身の内側から発露するエネルギーを以って、我々には考え及びもしない未来を創り上げてくれるのである。その連綿とした営みの上に、人類史は在るのではないか。そして、こうした一筋縄ではいかない問題を自身で捉え、苦心し、乗り越えていく問題解決の営みこそ、デザインである。
この機会を奪われるということは、日本においてデザインシンカーが育つことはない。ただし、この沈みゆく国の閉塞的な問題構造を感覚し、世界でどう生きていくかというwicked problemへの挑戦だと問題を転換した者は、逆説的に大いなるデザインシンカーとなるだろう。青年諸君、どうか海の外を自分の身体で見てきてほしい。そして、広い世界で挑戦の日々に明け暮れてほしい。今すぐには、スキルも知識も自信も無いかもしれない。それでいい。ただひとつ、肚を決めることだけできていれば、あとは自分の感性のままにいけばよい。腹を括っている人間の眼はとめどなく澄んでいて、その嗅覚は極上に研ぎ澄まされている。
そうした次世代の芽吹きに対し、私がこれまで蓄えて来たものが何かの役に立つのであれば、余すことなく渡したいと思う。それは、知を開拓する者として冥利に尽きる。
1893年生誕の桜沢氏、1920年生誕の川喜田教授、1936年生誕の長町教授。事を成し、世界を相手に新たな価値を自らの手で創り上げた先人たちは、その著書の中で一様に口にしている。
「日本は窮屈である。」
老害諸君、どうか次世代への邪魔立ては、ゆめゆめ無きように。
Boys and girls, be ambitious in this ambiguous world.
この続きは、デザイン思考2.0を機能させるためのマネジメントのお話。読みたい人がいたら、書きましょう。
本幕は、一旦これにてお仕舞い。