自己紹介
どう自己紹介したらいいのか、わからない。
自分だけが特別だとは思っていないけれど、でもやっぱりユニークな人生を送っていると思う。だから、肩書きとか、自分を表す言葉が、なかなかしっくりこない。
でも、これまでの中でいくつか気に入った肩書きはある。
・アントレプレナー / Entrepreneur
・エバンジェリスト / Evangelist
・キュレーター / Curator
・聴く人
・メディスンマン / Medicine-man
・シャーマン / Shaman
まあ、どれも肩書きというには大きすぎるし、特に最後の二つは、伝統的にその役割を全うしている人に対して少し失礼かもしれないけれど、そういう人たちに最大限の敬意を表しつつ、この二つは、今の自分にしっくりくると思う。
多分、初めてこの記事を読み、私のことを知らない人からすれば、「なんのこっちゃ」、だろう。
父が、亡くなった。
自分を語る時に、この話題を避けては通れない。
私は、1967年3月に、和歌山県の紀の川が流れる小さな平野に生まれた。
当時の住所は、和歌山県 那賀郡 那賀町 王子、今は、紀ノ川市 王子、と呼ばれるところだ。
父は小学校の先生をしていた(はず)。そして、家は農家も兼業していて、精米所も営んでいた。米を作り、玉ねぎやじゃがいもなどを作り、八朔などの果樹も作っていた。
その地方では、紀の川の上流からお嫁さんをもらうと縁起がいい、という言い伝えがあったらしい。これはのちに有吉佐和子さんの著書「紀ノ川」で読んだ内容だけど、そういえば、子どもの頃そんな話をおばあちゃんから聴いた記憶もある。
母はそんな言い伝えの通り、紀の川の上流の橋本というところから嫁いできた。
父は 1932年(昭和7年)、母は 1933年(昭和8年)生まれの、二人とも10代に戦争を経験した世代。そして同時に、大家族で生まれ育ち、核家族を作った最初の世代でもある。
父は6人家族の長男で、後継だったので、母が嫁いだ当時、私の実家にはまだ結婚していない兄弟が住んでいたらしい。
父方の祖母は、明治生まれ。とても健康で、平成まで生きた。享年104歳。
父方の祖父は、母が嫁いできた時には、すでに他界されていたらしいけど、和歌山県庁に勤め、和歌山の済生会病院の役員もしていたらしい。
そんな家庭に、私は生まれた。
私より2年先に生まれた、兄との二人兄弟である。
そして、私が生まれたあと、1年と1ヶ月ほどで、父が亡くなった。
お父さんって、本当に、いるんだな。
今だからこそ、父が亡くなった、という話を平静な態度で話すことができる。
でもそうやって穏やかに話せるようになったのは、この10年くらい。
つまり、私は40代の半ばくらいまで父の存在を私の中から抹殺していたように思う。
抹殺という言葉を使ったけど、何か特別な意思を持って能動的に彼のことを忘れていたわけではないと思う。だけど記憶の深い深いところに彼の存在が閉じこもったまま、表層意識には上がってこなかった。ひょっとしたら深い悲しみが出てくるから閉じ込めていたのかもしれない。
1歳と1ヶ月。そこまでしか父の記憶がないとすれば、父がどんな人だったのか、手がかりは誰かから聴く父の面影だけしかない。しかし物心ついた頃、つまり本格的に記憶が残り始める小学校低学年の頃には、父の死という事実は、家族を含め私以外の人たちの中では一通り消化され、乗り越えられてしまっていて、そのプロセスから私はぽっかりと抜け落ちてしまっていた。私には、父親の死を乗り越えるプロセスを一緒に過ごしてくれる人はいなかった。
私にとって、記憶もなくお別れもしていない父親という存在は、最初からいないのと同じだった。
父親がいないことは、私の宇宙では当然の真理であり、疑うことなき現実だった。
ところが当然の真理だと思っていたことに、ちょっとだけ穴が空いたことがあった。
小学生だったある日、友達の家に遊びに行った。
その家にはおもちゃがたくさんあり、二人で仲良く遊んでいた。夕方になって、彼のお母さんがかけた、ふとした言葉に衝撃を受けたことを覚えている。
「お父さんがもうすぐ帰ってくるから、それまでにおもちゃを片付けてね。」
え? お父さんって、いるんだ。
お父さんって、本当に、いるんだ。この家には。
父がいる家庭がある。という事実は、想像していなかった。
もちろん、テレビをつければ、父と母がいる家庭がモデルとして出ていて、日曜夜のサザエさんでも、マスオさんや波平さんがいる。だから、知識としては、当たり前のように認識していたこと。
でも、「帰ってくる」という言葉は、その場で一緒に遊んでいた私にとって、友人の少しそわそわした感じとか、お母さんの声が弾んでいる感じとかと相まって、知識以上の何かを私に伝えてきた。
お父さん、帰ってくるんだ。
僕には、お父さん、いたっけな?
その時が、私なりに父という存在について、初めて実感を持って意識に上がった時だったのかもしれない。