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瀬名姫に信康公に涙・・・岡崎にて2

岡崎公園での松潤パフェに惹かれつつも、どうしても次の神社社務所受付時間までに行きたい場所があった。
急ぐんだーー。気持ちだけは、松尾芭蕉の旅ならぬ江戸時代の飛脚だ。実際は走れない・・・

スマホでGoogleマップの通りに歩き、途中、何や?と思いながら30分近くかかり、やっと到着。
Googleマップの通りに歩くと遠回りになったり、横断歩道も信号もない車の通りの激しい道を横断などになるので、100%過信はならない。
だが、初めての地は頼りになるうう。

仕事先のメンバーが捨てた御守りを返しに湯島天満宮を訪れて以来、天満宮が好きになってしまった私は岡崎の天満宮にも絶対に行きたいと思っていた。
だが、ここ岡崎天満宮参詣の目的は他にもあったのだ。
どうしても、岡崎に来たら、徳川家康公の長男と築山殿の墓所には行きたいと思っていた。
そして、調べてみると、祀られている神社の御朱印は岡崎天満宮で頂けるとな。
ということで、社務所が閉まる夕方4時までに!!と急いだのだった。
他は、神職不在で、日も長い時期なので、ゆっくりとでいいだろうと思ったのだった。



天満宮と言ったら、牛と梅


建保5年(1217年)順徳天皇の勅命により、道臣命を勧請する。その後、元禄3年(1690年)菅原道真公を合祀奉斎した。学問・厄除け・交通安全の守護神として崇敬篤く、境内には菅原道真公の愛した梅が数多く植えられている。(頂いたパンフレットより)

天満宮ということで、全国どこでも梅と牛は当然なのだが、ここで私が目に留めたのが鷽(ウソ)の像であった。

ウソは天神様の可愛がられた鳥で、昔から「嘘を食べてくれる」「災い事を嘘のように吉事に変えてくれる」という信仰があります。
当神社では毎年正月に「鷽替神事」を斎行し、この鳥をかたどった御守りを授与しています。1年のお務めを終えられた「うそ」は境内の「鷽塚」に鄭重にお納めいたします。(神社から頂いたパンフレットより)

素敵な神社であった。

そして、岡崎天満宮が兼務されている神社が、徳川家康公の妻子に関連する神社なのだ。


八柱神社に到着。


築山殿の首塚がある。

天正7年(1579年)の創設で、八王子権現と称し、かつては欠町広見西に鎮座した。大正2根に欠町石ヶ崎の神明宮を合祀し、昭和9年に現在の地に遷座する。
現在では、欠町五ケ町の氏神・産土神として尊崇されている。境内には、徳川家康公の御正室である築山御前の首塚が祀られている。(神社から頂いたパンフレットより)

神職がおられないということで、街中に見かける、ただ鳥居と昔の社があるだけの小さなものだろうと想像していたのだが、イヤイヤ申し訳ない。
敷地が広く、お社も立派なものだった。町内会だか氏子の方だろうか。神社の戸締り、清掃に来られたようで、慌ててお賽銭を入れ、手を合わせた。
戦国時代の非常に悲しい物語だ。
ここで知るのは、私が好きな東北大学の田中英道田名先生の歴史の読み方だ。
過去の事実があり、それをどう解釈するかが歴史になる。
築山殿が殺されたのは事実。かなり評判の悪い女性と何百年もの間、言われてきたが果たしてそうなのだろうか。
信長、家康が勝者であるから、今川方の瀬名姫がそう見られるのかもしれない。などと今は思うのだ。
とにかく、岡崎のこの地に来られて良かった。


そして、家康公の長男、信康が祀られている若宮八幡宮である。


こちらが信康公の首塚になる。


駐車場にいた3兄弟。信康・秀康・秀忠

天正8年(1580年)、仁徳天皇を祀り、名栗天神と称した。
後に織田信長の御口難により御自害された岡崎三郎信康公(徳川家康公の御長男)の御霊を合祀し、若宮八幡宮と改称した。
現在では、若宮町の氏神・産土神ろして尊崇されている。
御垣内には、信康公の首塚があり、毎年9月15日に命日祭が斎行されている。(神社から頂いたパンフレットより)

こちらは、住宅街の中にあり、規模としては町の神社という感じであった。
築山殿の首塚と比して、どこだか探さないとかなという印象も受けた。

しかし、駅か岡崎公園周辺の辺りでタクシーをと予定していたのだが、一向に見当たらず、スマホから電話をかけるのは好きではないので、とにかく歩いた。かなりの歩数になり、夜は足の裏が腫れあがっていた。

そんな岡崎での1日であったが、来られた事に感謝したい。


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