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名前の意味
今現在、保護猫施設のボランティア活動を御縁があり、させていただいている。
元々は、5年前にそちらの施設から三毛の仔猫を貰ったのがきっかけだった。
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その当時の私は「保護猫施設で名前を付ける」ことに疑問を感じていた。
すぐに里子に出すのだろうし、可愛い仔猫なんかはすぐに決まる。そちらで新しい名前が与えられるであろうと。
事実、うちの三毛猫は改名している。
それから5年。今では名前を持つこと、呼ぶことの意味を痛感している。
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なかなか人に慣れないでずっとシェルターにいる猫たち。
だが、しかあし!
ある事をきっかけに、私は彼らに近づいたのであった。
そう!それは餌をあげる時、猫の大好きな大麦若葉をあげる時、名前を呼ぶことだ。
ちなみに私は、青汁王子様には申し訳ないのだが大麦若葉は嫌いだ。飲めない。
それまで隠れていた子、威嚇していた子が何故か、スリスリしてくる。
もちろん、野良猫でも最初から人懐っこい子はいるのだが。
というか、江戸時代の猫たちは名前なんぞ付けなかった。と、太田道灌に詳しい人から聞いた事がある。
吾輩は猫である。なんてね。
ちょっと、話がずれるのだが、名前はどれだけ大切なものか、10数年前の日記から書き写したい。
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中野区と練馬区との区界。練馬区江古田にあるカトリックベタニアホーム。特別養護老人ホームである。
だが元々はこの場所は、1930年(昭和5年)関口教会の主任司祭だったヨゼフ・フロジャック神父が、死病と恐れられ治療の見込みも無いまま病棟から退去を命じられ、社会、家族からも見捨てられ行き場のなくなった者のために、結核療養所として「ベタニアの家」を始めた。老人ホームの場所は結核療養所だったのである。当時の結核療養所では、患者を番号で呼んでいた。これは何を意味するであろうか。名前で呼ばれないこと。これは人として扱われないことでもある。例えば、会社などでその人の名前ではなく、番号で呼んだとしたらどうであろうか。今は番号で呼ぶ会社などはないであろう。今、敢えて番号で呼んでいる場がある。それは刑務所である。死刑囚に至っては「死刑囚何番」と呼ぶ。人として扱われていない、はっきりしている。聖書では最初から人に名前をつけている。初めの人、アダムは動物に名前をつけていった。そして、自分のパートナーである女性にエヴァと名前をつけた。これは「命」という意味であった。
ヨハネによる福音21章15ー17では、復活されたイエス様はペトロに三度「わたしを愛しているか」と尋ねられて「いる。ここで、大切なことは2つある。イエス様はペトロに対して、きちんと名前を呼ばれていることだ。イエス様は、ペトロに対してしたのと同じように、私たち1人1人の名前を呼んでくださるお方である。
そして、「愛しているか?」と尋ねられていること。決して、「信じるか?」とか「従うか?」「私の復活を信じているか?」などという言葉ではない。
人を番号で呼ぶ世の中になったら、もう終わりである。神様は私たちの名前を呼んでくださるお方なのである。
と、ここまでは、徳田教会の大倉神父様(ペンネーム「ジョニー大倉」。霊名がパウロであるのに、ジョニー(ヨハネ)とはこれいかに)の説教である。
名前で呼ばれる。その事は大きな意味があると思う。何しろ、神様は私たち人間に個別の名前をつけてくださった。そして、イエス様は私たち1人1人の名前を呼んでから、本当に必要な事を語ってくださる。
もう徳田教会に行くことも、ジョニー大倉神父に会う事もないだろう。
だが、あの説教を聞いてから、名前の意味を深く考えるようになった。
お嫁さんの事をわざと「ちょっと」と言う人もいるのが現実だ。
人間でも犬でも猫でも名前で呼ばれると嬉しいものだ。
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イケメンと美人の兄妹です。