ひかりごけ~読書記録246~
『ひかりごけ』は、武田泰淳の短編小説。1954年(昭和29年)3月に雑誌『新潮』で掲載され、同年7月に『美貌の信徒』に収録された。実際に起こった食人事件(ひかりごけ事件)を題材に書かれたレーゼドラマ。紀行文、戯曲第一幕、戯曲第二幕の三部構成となっている。
武田泰淳は、浄土宗僧侶でもあった。
作者はこの作品を通して落ち着いた日常生活の背後にある、戦時下の惨劇を生き延びたものとしての自覚を示した。
「ひかりごけ」とは、金緑色に光る苔のことだ。
物語では、人肉を喰らった人には首の所に光の輪が出来るとされている。
八蔵:うんでねえ。昔からの言い伝えにあるこった。人の肉さ喰ったもんには、首の後ろに光の輪が出るだよ。緑色のな。うっすい、うっすい光の輪が出るだよ。なんでもその光はな。ひかりごけつうもんの光に似てるだと。
(本書より)
題名の由来がここからわかる。
人肉を喰らい、船員を殺害した船長は裁判を受けるのであるが、裁判の際には、まるでゴルゴダの丘に向かうキリストの如く静かな平安の中にあるのだ。
裁判の場にいた人たちにも首に光の輪が現れ、この物語は終わるのだ。
これは、武田泰淳の思想が出ている作品なのだろう。
「すべてのものは、変化する。お互いに関係しあって変化する」という、武田泰淳流の諸行無常の考えだ。(解説より)
宗教学者の島薗進先生は、「ひかりごけ」については、
「悪の自覚と共に生きる」と示唆している。
人肉喰いはいかなる意味で悪なのか。飢えて何も食べないでいれば死んでいくしかない状態の時、既に死んだ人間の肉を食べて生き延びる。また生き延びて、死にかかっている人を助ける力を得る場合、死んだ人の肉を食べる事を重い罪と咎めることができるだろうか。神や仏がいるとして、それを許さないはずがない。そう考える事も出来る。
もし人肉喰いの問題が、自分が他者より優位を得て生き延びることを巡る問題であるとすればどうか。それは現代人にとって日常的に経験することだ。ここで作者は、人肉喰いの悪とは何も特殊な悪ではなく、むしろ現代人が日頃直面している悪の問題でもあると見ているのだ。
人間は悪を犯し、悪に傷ついて生き、死んでいく。それを強く自覚せざるを得ない人も、自覚しないまま一生を終える人もいる。船長は悪を犯して生き延び、罪を社会から告発されて、自らの悪を自覚せざるを得ない存在となった。船長の「我慢する」という言葉は「悪の自覚と共に生きる」ということだろう。
戦後まもなくの日本では、多くの戦没者の後に生き延びてしまったという負い目が広く分け持たれていた。この作品はそうした負い目を表現しているようである。しかし、船長のように正当化する理屈がうまい戦後の多くの日本人は、そのような負い目をもう忘れてしまっているのではないだろうか。
(本書より)
人肉を喰らうという題材からして怖いものであるし、戦時中の状況では仕方のないことだったのかもしれない。
色々な事を考えることになる物語であった。
浄土宗の寺に生まれ、自らもやがて僧侶となる武田泰淳だからこその思想文学なのかもしれない。