江戸の文化に触れる 台東区蔵前 浄土宗池中山盈満院榧寺 私の百寺巡礼148
榧寺。ふりがなが振っていないと読めない。こんな恥ずかしい人間は私だけだろうか。
いいんだ。ネトウヨからすると私は日本人じゃないらしいから。
何故、榧寺なのか?
お寺の方に話をお聴きしたところ、大きな榧の樹があったことから来ているらしい。信徒会館は「かやのき会館」と名付けられている。
今から4百年程前、1575年頃、浅草より少し下流の隅田川のほとりに、樹齢1000年の榧の大木が立っていた。そこには小さな庵があり、一人の僧が毎日村人たちと念仏をしていた。
ある日山伏がやって来て、榧の実を賭けて碁の勝負を申し出た。榧寺の僧が負け、山伏は榧寺の榧の木の本体を、遠江(伊豆半島)の秋葉山に移してしまった。翌年から伊豆の秋葉山の榧の木は、たくさんの実をつけた。
山伏は榧寺にやってきて、彼は秋葉大権現という火の神だと告白し、榧の実のお礼に、このお寺を火事から守る約束をした。また、この地がやがて国の中心になるだろうと予言した。
予言通り、江戸幕府が開かれ、将軍家康公の葬儀を執り行った観智国師が第一世となり、浄土宗の立派な寺が建てられた。
享保年間(1716-1736)の火事では、榧の大木が焼け、その根で秋葉大権現像が作られた。
その後何度も江戸は大火事に見舞われたが、寺の門前で火は止まり、沢山の人々の命が助かった。
この縁起は文化11年(1814)榧寺の檀徒であった石川雅望(国学者、狂歌師としての宿屋飯盛、文章家として六樹園の号あり)の書いた縁起並に文政4年(1821)に栗原信充が描いた絵をもとにして記述したもの。
絵巻は今もなお殆んど破損することなく寺宝として残っている。北斎の木版の裏には、写楽の大童山の絵が彫られている。
モデルの大童山の墓は榧寺にある。
飴舐め地蔵。百日咳の平癒をお願い、お供えした飴を舐めると咳が癒えたと伝えられている。
厄除地蔵尊。高村光雲作。
徳川の葵の御紋が目立つ。
頂いたパンフレットだ。
住所は蔵前だが、浅草にも近く、上野、浅草、蔵前と台東区は江戸幕府と共に発展したのだなと改めて思うのだ。
対応してくださったお寺の方は本当に感じが良かった。
浄土宗池中山盈満院榧寺
台東区蔵前3-22-9
都営大江戸線・蔵前駅から徒歩1分