上杉鷹山の師 細井平洲~読書記録461~
上杉鷹山の師 細井平洲 童門冬二
借財、なんと十数万両。破綻間際の米沢藩に迎えられた若き藩主、上杉鷹山は、倹約を徹底し財政改革に取り組む。しかし因習にまみれた藩の改革は並大抵のことではない。鷹山を支えたのは「治者は民の父母であれ」という、師の細井平洲の教えであった。「恕――大切なのはやさしさと思いやり」等、日本人の美しい心を愛した“へいしゅうせんせえ”の言葉の数々。困難なときにこそ読みたい感動の一冊。
上杉鷹山の本や記事は、数年前から読んではいたのだが、細井平洲に関しては全くの無知であったので、そうなのか!と、学ぶことが多かった。
米沢市関根駅前にある真言宗普門院も、上杉鷹山ゆかりの地ということで訪れたのだが、ああ、しまった!先にこの本を読んでいたら、と思うのであった。江戸から細井平洲が米沢に招かれた時に、米沢城の手前にある普門院のお寺で休んだのだ。普門院自体、そんな役割もあったようだ。
次回は、米沢駅から歩いて行こう。
私の無知ゆえなのだが、米沢にずっと暮らしていた上杉鷹山がどうやって細井平洲に学んだのか。それも謎が解けた。
細井平洲は、江戸で学問を教える学者であった。江戸時代、各地の大名は参勤交代はもちろん、跡継ぎの子ども、正妻は江戸の大名屋敷に住む習わしがあったのだ。人質の意味もあったのだろう。ああ、そういえば、歴史で習ったが忘れていた。
上杉鷹山は幼い時、上杉家の養子になったのだが、その時に江戸で暮らすのだ。そして、米沢藩の医者が是非にと頼み込んだ細井平洲に学ぶことになったのだ。
米沢藩の改革。もちろん、上杉鷹山の元々の資質、賢さ、性格もあるのだろう。だが、細井平洲先生がいなかったなら、米沢藩の改革はなかったのだ。
細井平洲は、上杉鷹山だけではなく、その周りの人にも大きな影響を及ぼしたのだ。
歴史から学ぶことは大きい。