赤毛のアン 1993年 松本侑子訳~読書記録235~
元テレビ朝日社員(ニュースステーションで初代天気予報キャスター担当)の松本侑子さんが、1993年に訳された本。
一言で言うと、訳者の気迫を感じた。
今までの訳は、ところどこと省略して紹介されていたらしい。
(村岡花子訳を愛してきたので、初めて知った)
深町眞理子先生のエッセイを読んだ時にも抱いた感想であるが、海外の作品を読む場合、どうしても翻訳者の視点を通して私たちは読む、知る事になる。
だからこそ、もしも幾つか訳本が出ているなら、読み比べるのは良いかなと思った。
村岡花子訳が大好きな私ではあるが、松本侑子さんの訳は読みやすい。
惹きつけられていく。
訳者は、この作品について色々調べ、注釈で本の大部分を使っている感じであった。
現代の人向けの訳なのだろうなとも思った。
ツイキャスで朗読をするには、実に相応しいというか、読みやすい本であった。
私は、まあ、若い頃に教会メンバーに「マシュウはマタイ」「レイチェルはラケル」とか、聴いていたし、本書に出て来る聖書の話なども解説は要らないかなとも思った。
だから、「訳者ノートを参照しながら読んでいただきたい」という訳者の要望は、わかっている部分が多いから申し訳ないけど、と思ってしまった。
解説を引用しながらは、物語そのものから目をそらせてしまうので、申し訳ないが、ツイキャスでもしなかった。訳者には本当に済まない、と言うしかない。
けれども、本に出てきた植物は、訳者の丁寧な注釈が本当に有難い。
年齢もあるし、金銭面もあるし、病気ゆえに飛行機に乗れない私は、カナダに行く事は出来ないであろう。
だから、この生き生きとした描写、詳しい訳は感謝であった。
赤毛のアンは、決して少女向けの小説ではなく、大人の文学である。
その事に関しては、松本侑子さんに同意する。
「私は。私以外の誰にもなりたくないわ」(アンの言葉)
そうだ、その通りだ。
アンの自由な生き方。本当にすばらしい。
実は、再び、赤毛のアンを読もうと思ったのは、茂木健一郎先生の書きおろし本を読んでからだ。
村岡花子さんの訳ではなく、違う訳を探したわけだ。
だが、申し訳ない。やはり村岡花子訳が私は好きだ。
これは、私の個人的なものなので、全ての日本人に当てはまるわけではない。
何しろ、私は、村岡花子さんのお墓には歩いてすぐの家に住み、彼女が洗礼を受けた山梨県の教会の牧師とも親しくしていたことがあった。
簡単に外国に行けなかった、今のように簡単にネットで検索もなかった村岡花子さんの生きていた頃。
松本侑子さんの訳で素晴らしいなと思ったのは、素晴らしいカナダの自然の情景が浮かぶことだ。ご本人も足を運ばれているからだろう。
本に出てきた植物で気になったのをネットで検索した。
訳者の松本侑子さんが、あとがきで書かれていたが、日本の女性誌のアン特集は本物のアンではない。ダイアナ・バリーの世界ではないか?と。
家庭的で女性的なダイアナ。
確かに、その通りだ。
もしかしたら、訳者がマスコミの世界にいたからこそ、観えるのかもしれないと思った。
とにかくも、これだけの素晴らしい訳に感謝したい。