広すぎる聖域に迷い、泣く 奈良県斑鳩町 聖徳宗総本山法隆寺 私の百寺巡礼288
法隆寺と言えば聖徳太子。義務教育の年齢で教えられてきた。
法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来。創建当時は斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と称し、後に法隆寺となった。法隆学問寺としても知られる。法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートル。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である。
法隆寺駅は、それだけで芸術的だ。
自分が下調べもせずに何とかなるだろう、と軽い気持ちで行ったものだからいけないのだが、広すぎた。
入館受付女性の関西弁が全く何を言っているかわからないのだ。
え?どういう順路なの?結局、御朱印所はどこなのよ?
もう、行き当たりばったり、突っ切るしかない。
で、ある場所で、あ!御朱印所の入口に傘を忘れた!と気づき、戻ろうとすると、
「何やってんねん。順路ちゃうやろ」
と、男性、女性、両方のスタッフから言われたのだ。
え?傘を忘れてしまったので。。。
と説明しようにも、そんなキツイ言い方をしなくてもと泣きそうになった。
受付でも、
「順序ちゃうねん。何してんねん」
と言われたもので、
「すみません。そこの御朱印所の入口に傘を忘れてしまいまして。雨が降りそうなのに、駅までコンビニもないですし」
と説明する。
そんなこんなで泣きそうになりながら傘を取り戻したところに、空から雨が降り出した。
高齢女性の涙を誤魔化す雨やあ♪
最後の夢殿のスタッフの対応がとてもよく救われた。
教えてもらわなければ、Googleマップの案内に従い、中宮寺まで遠回りの猫が通るような道を通ったであろう。斑鳩神社も教えていただいた。
ほら! あそこに赤いコーンおまっしゃろ。 あそこから撮影すると夢殿の全景が綺麗に撮れてインスタ映えしまっで。 こちらのスタッフは親切で感謝。
と、やはり、海外旅行と同じ感覚で関西には行かないとかな、と思うのであった。
ここで、五木寛之先生の本から一部紹介したい。
斑鳩の地に堂々とそびえる法隆寺。
奈良のシンボルといえば、やはりこの法隆寺であり、また聖徳太子にとどめをさす。古代のロマンと謎に満ちた寺、法隆寺を巡っては、今もなお学者たちによって様々な研究が行われている。また、これまでに聖徳太子と法隆寺について書かれた本は、数えきれないほど出版されてきた。それだけ、この寺には日本人の心をとらえて離さない魅力があるのだろう。
かつて聖徳太子が造営し、暮らしていた斑鳩宮は、現在の法隆寺の夢殿あたりにあったと言われている。
今、詩情ある斑鳩の里を散策していると、かつてこの地を舞台にそうした凄惨な事件が連続して起こっていたというのが信じられない気がする。
もし日本が島国ではなく、ヨーロッパのような大陸であれば、歴史は大きく異なっていたであろう。政権交代が起こって追放された人々は、国境を越えてどこかへ逃れることもできる。生き延びて再起を期すことも可能だろう。
しかし、島国の小さな世界の中では、被征服者や立場を逆転された人々はどうしようもない。一部の人々は、捕らえられて処刑される。また、それ以外の命を助けられた人々は、他の国へ逃げる事も出来ず、その地で生き続けなければならないのだ。
政敵を追い落として政権を握った側にしても、その一族まで皆殺しにするのは難しい。そんなことをすれば、人心が離れてしまうだろう。そうかといって、対立勢力をすべて国外へ追放してしまうこともできない。となると、権力の座についても、倒した政権の遺族や支援者たちの怨念というものを日常的に感じざるをえない。
古代の社会においては、おそらく、怨霊に対する恐怖というものも大きかっただろう。ある人が処刑されたのち、落雷や火事や伝染病など様々な出来事が起こる。すると、人々は、これは処刑された人の祟りだ、と考えたに違いない。
そこで、勝利した側は、怨霊の祟りを恐れる一方で、自分が殺した政敵を祀る事によって。遺族の怨みをなんとか宥和しようとしたのではないか。彼らの怨念を解消する現実的な手段は、処刑した政敵を祀るということにつきるからだ。
斑鳩の里に神社仏閣が多いのも、人々の怨念が激しく渦巻いていたという一つの証しではなかろうか。法隆寺を見ながら。そんなふうに私は少しひねくれて考えてみたりもする。
聖徳宗総本山法隆寺
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1−1
JR大和路線・法隆寺駅より徒歩20分
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