見出し画像

猫と車イス~読書記録276~

猫と車イス 思い出の仁木悦子は、ミステリー作家・仁木悦子さんのご主人であられる翻訳家の後藤安彦氏が、主に亡き妻が遺した日記を基に丁寧に妻の事を書いたエッセイである。


後藤 安彦(ごとう やすひこ、1929年5月28日 - 2008年2月16日)は、日本の翻訳家、歌人。本名、二日市安(やすし)。
脳性麻痺による四肢と言語の障害のため、小学校卒業後、在宅にて過ごす。1962年、仁木悦子と結婚。

仁木悦子はやわらかな感性と鋭い観察力、そして強い意志の人であった。4歳で脊椎カリエス発病、ベッドと車イスの生活となる。昭和32年『猫は知っていた』で衝撃的デビュー。初の女流推理作家の誕生は、戦後日本の新しい時代の到来を告げる社会的事件だった。女流作家の会や戦争で兄を失った妹の会を主宰、障害者運動においても活躍した。好奇心にあふれ、限りない優しさで周囲を勇気づけたその豊潤な生涯を、最愛の夫が語る。
(本の紹介より)


亡き妻に対する想いをとても素直に綴られている。この本を読み、大したことはないのだが、少しの疑問も解けたような感じがした。

例えば、仁木悦子さんは病気で寝たきりになってしまった為、小学校にも行けずにいた。それなのに、何故あんなにも素晴らしい作品が書けるのか。又、賢いのか。
一緒に住んでいた兄(当時の一高から東京帝国大学卒)が家庭教師のように面倒をみていたのだ。兄は学生時代には、よその子供の家庭教師のアルバイトもしていたというから、教えるのは得意だったようだ。
父の弟、姉の夫など、医者などもおり、優秀な家系だったのだ。
兄が結婚した相手は、元々は戦時中に仁木悦子の面倒をみてくれていた方で、気兼ねすることもなく、結婚後も兄の一家と暮らしている。
寝たきりでもありながら、甥、姪の良き遊び相手になり、服なども編んでいたようだ。
結婚した姉も隣の家に暮らし、貸本屋で本を借りてきては読み終わると妹に貸していたようだ。
3日で返さねばならない所を、姉は半日で読み終えていたという。姉により、外国物の推理小説を知ったことも大きいようだ。

そして、私が疑問だったこと。
両親共にクリスチャンであり、知り合いのクリスチャンをモデルにして書いた「罪なきものまず石投げうて」があるように、彼女自身、キリスト教の教会にも縁が深いはずなのだが、信仰に触れているものはなかった。
彼女は、元々はクリスチャンで世田谷区経堂の辺りのK教会に籍をおいていたようだが、離籍していたのだ。

三重子(仁木悦子の本名)はその少し前に、それまで所属していたK教会と信仰上のことで意見の相違をきたし、手紙を出してこの教会からの脱退の意志を表明した。
このころの日記のはしばしに書かれたことばから推測すれば、三重子が納得できないものを感じたのは、祈らない人間には救いがないとか、キリスト教の信仰だけが唯一のものだとしてー少なくともそのなかの主流を占めていた人たちのー頑迷さにあったようである。またみずから宗教者をもって任じる人たちの非寛容さや偽善ぶりも、二十歳まえの若い娘の潔癖さが許さなかったようである。(本書より)

中国で戦死した兄は、キリスト教徒らしい生き方をされたようだ。
「この男は天皇陛下のために戦ったのではなくてキリストのために戦ったのだ。こんなやつは靖国神社に入れることはできん」
と、兵隊に行き、戦地で亡くなったのに、靖国神社合祀には加えられていないのだ。実に恐ろしい世の中だと私は思う。
そして、仁木悦子は、「戦争で兄を亡くした妹の会」を立ち上げるのだ。


その他、女流ミステリー作家たちとの交流、野良猫殺処分に対する東京都への抗議など実に活動的な方だったのだな、と知ることが出来た。

後藤安彦氏がどれほど深く仁木悦子さんを愛していたか伝わる素晴らしい本であった。

現在は、ここにご夫妻で眠っておられるようだ。
管理は浄土真宗のお寺である。
そのうちに、お参りしたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?