白秋期~読書記録59~
2019年発行。五木寛之先生へのインタビュー記事をもとに再編集されたものである。
人生100年時代。人生50年と言われていた頃と、定年後の生き方を変えねばならないのだな、とつくづく実感するのだ。
先生は、今の100歳まで生きる時代は、50代から70代からを白秋期。人生の収穫期、黄金期と書かれていた。
白秋期は自分本位に生きる季節だが、単なるエゴイズムとは違う。縁あってこの世に生まれた生命を、何よりも大切にする。生命の尊さに気づき感謝する。思う存分、自分らしく生きる時期。
黄金の収穫期とは、外見上の若さを保つことでもなければ、物質的豊穣を満たす事でもない。人生の本当の喜び。本当の自分の発見というものを手に入れること。
【白秋期の道標】
生活を極力コンパクトにする。
浪費の習慣を捨てる。
自動車の運転を辞める。
粗食の習慣を身につける。
【白秋期の3K】
お金、健康、孤独
格差社会の広がり。
下流社会、下級老人、老後破壊。。。
現代はグローバリゼーションの時代と言われるが、アダム・スミスが言われたような金儲けは善の西欧の価値観は、現在の白秋期(50代から70代)の人間にはないのではないだろうか。
政府のシステムに依存して、自分の後半生を終えることが難しくなってきている。自分でやっていかないとしかたない。
3/11の震災のあと、やたら「絆」という言葉が言われるようになったが、元は「家畜が逃げないように繋ぎとめておくための綱」という意味だった。
白秋期には、「絆」ではなく、自分で元気に生きていく力を手に入れたい。
人類の生存期間を永らえさせるという考え方には、どこか納得できない。
現代の技術からしたら、お金さえあれば人工的にいくらでも長生きは出来るらしいが、ゆっくりと静かに自然にしたい。。。
科学を宗教から切り離したのはデカルトであるが、現代の私たちは医療に対する信仰とでもいう姿勢があるのではないか。
医師を信じる。医療を信じる、という事。
「そのまま生きよ。死ぬときは死ぬ」
というひそかな声に従おう。
百万人の人間がいたら、百万人の「その人にとってのいい加減」(湯加減など)がある。体験によって自分の感覚に従う。
ちょっと頭が痛いから薬、腰が痛いから医者に。ではなく。
自分の身体の声を聴く。
秋と言う字の下に心を付けると「愁」となる。なんとなく心が晴れない。物寂しい。自分自身の問題。ロシア語の「トスカ」は暗愁と訳されますが、二葉亭四迷はゴーリキーの小説にある「トスカ」を「ふさぎの虫」と訳した。
人間は生涯、この愁を抱えて生きる生き物なのだと考えている。
語れ。語れ。と蓮如の言うがごとく、そう自分に言い聞かせて生きてきましたが、日本では、多くを語る者は浅いなどと言って軽蔑されます。けれども私は、他人に何を言われようと、その逆の道を行きました。私にとっては語ることは書く事を意味します。
人間と言うものは、第一に生まれてくる条件を何一つ選択できません。第二に、生まれて生きてゆく最終目標を選択できません。行先の書かれていない列車に乗り、敷かれたレールの上を走っていかざるをえないのです。第三に
乗車機関が限られています。
私には、人間はちっぽけなもの、という実感があります。人間は愚かで、同しようもない欲張りであるとも思っています。
では、人生の目的とは何か?
私は、人生の目的は「自分の人生の目的」をさがすことかもしれない、と考えています。
人間は群れをつくるという本能があるかもしれない。それからカップルを作るという本能があるかもしれない。しかし同時に、本来は独りでそれぞれが生きたいという、群れを離れたい願望というものも半面あるのだ、というふうに思うところがあります。
法然が亡くなるとき、弟子たちに言い遺したことは、「群れ集まるな」ということです。ところが、法然が亡くなると同時に、浄土宗という大きな組織が出来ていく。
白秋期になったら、「人は本来孤独である」と自覚すること。
人生をリセットすること。
自分の身体を自分で扱うこと。(他人任せにしない)
まさに今、白秋期に入った私には、良い本であった。