徳川家光の時代にゴイゴイスー! 埼玉県狭山市 天台宗仙波中院末薬王山地蔵院広福寺 私の百寺巡礼246
ここ、広福寺に来たい!と思ったのは、なんのことはない。旅番組で紹介されたからだ。
新狭山駅からなんでこんなに歩くんや!と文句を言いながらも、津田が歩いていた。その目的地がここ、広福寺だ。
テレビで観た時はパノラマ撮影で満開の枝垂桜が見事で、うっとりとしたのだ。
番組で紹介されていたのは、この門が竜宮作りという日本ではなかなか珍しいものなのだそうだ。
今回は残念ながら、梅、桜、紫陽花。何も咲いていない。
やはり、行くのに相応しい時期というのがあるのだろう。
広福寺は天台宗の寺院で、本尊は木造の薬師如来坐像やくしにょらいざぞうです。創建は永禄11年(1568)と伝えられていますが、過去帳を見ると「永正甲戌仏涅槃ねはん日天台沙門実海しゃもんじつかい寂」とあるので、その草創は永正11年(1514)以前にさかのぼるものと考えられます。 同寺の山門は白壁が美しい竜宮造りの建築様式をとるもので、入母屋いりもや造りの瓦葺かわぶき屋根の下は鐘楼しょうろうになっています。この山門は、同寺所蔵の「表門諸入用帳面式」によると、文化元年(1804)10月29日に棟上むねあげ祝儀を行ったとあるので、翌年には完成したと考えられています。また、同文書によると、工費は大工や木挽こびきの手間賃などを含めて281両2分2朱余とあるので、莫大な経費をかけて建てられたことがわかります。 なお、同寺には、雨亭うていが描いた人物画の杉戸がありますが、同人は中国から来た人で文化2年に亡くなっているので、この山門建築に何らかの関係があったのではないかと推察されています。
狭山市指定文化財〔有形文化財・建造物〕
指定日:昭和48年(1973)3月1日
天台宗仙波中院末薬王山地蔵院と号します。草創(初めて寺を建てること)は正徳4年(1714年)当寺が全焼し、古記録が焼失されたため不詳です。 当寺には、徳川三代将軍家光がたびたびお成りになったと記録があり、寛永5年(1628年)のお成りの際、川越城主松平伊豆守に命じて本堂西側に休憩所を造らせ、その側に御鷹部屋を建てて、鷹を放し飼いされたといわれています。 本堂前の紅梅は、家光が嘆賞したので「御詞おことばの梅」という言い伝えがあり、またその梅の側の井戸もその水で家光にお茶を入れたので、これも「梅の井」といわれています。 幕末には、水戸藩士から広福寺の住職になった章意和尚に関係して、勤皇の志士である当時の川越地方出身の西川錬造や清河八郎らが、当寺に出入りしていたと伝えられています。 広福寺山門は市指定文化財です。(狭山市ページより)
こちらは、徳川家光が鷹狩の時に休憩されて、使われた井戸だと言う事だ。
今は飲料用としては適さないが、水はまだ出ている。
その水を利用して造られたのがこちらの池だが、これは先代住職が造られたということで、数十年前の新しいものなのだそうだ。
住職に話を伺う事が出来た。
東京、横浜と違い、戦時中に空襲などなかった。イヤ、むしろ、この辺りは疎開してくる場所だったのだ、と。
ただ、元々の御堂は江戸時代に焼失してしまい、今存在しているものは江戸時代に建てられたものだとか。それでも、素晴らしいと思うのは、昭和以降の建物しか普段見ていない
からだろう。
丁寧に対応してくださり、感謝であった。
天台宗仙波中院末薬王山地蔵院広福寺
狭山市大字下奥富844番地
西武新宿線・新狭山駅より徒歩10分