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前向きマイノリティ 第1話

 不思議な女の子だった。
 彼女と初めて出会ったのは、確か小学校に上がる前のことだった。
 ぼくは隣町にある碁会所で毎週囲碁の道場に通っていた。囲碁好きの父親に連れられて、五歳から通っていた道場である。
 ある日、道場が終わった後に常連のおじいさんたちに教えてもらっていると、一人の見慣れない女の子が入ってきた。
 その時の彼女はぼくより年上に見えた。
 受付の早苗お姉さんから声をかけられた彼女は、咄嗟になんと答えればいいのかわからなくなったようで、モジモジしていた。
 すると、後から入ってきた彼女のお母さんらしい女の人が代わりに答えた。
「この子、パドゥクちょとできるですから、少しやってみたい。おいくらですか」
 ぼくは言葉の響きが少し変わっていると思った。今なら事情がわかっているが、その時はなんだか変な親子だなぁと思ったものだ。
 早苗さんはなんとなく状況を察し、その女の子と打つ相手を探して碁会所を見回した。
 ぼくと目が合う。
「ゆうくん、今からこの子と打ってみる?」
 その頃のぼくは勝っても負けても囲碁を打つのが好きだったので、もちろん大きく頷いた。
 当時は多分十級くらいの棋力だったように思う。
 早苗さんは、入り口に近い席に、普通の盤より小さな十三路盤を用意した。道場で入門者向けに使っている少し小さな碁盤で、初心者でも最後まで打ちやすいのだ。
「じゃ、ゆうくん二子置かせてあげて」
 早苗さんはそう言ってぼくに白の碁笥を、彼女に黒の碁笥を渡した。
「ぼく、勇太郎」
 碁笥を開けながら自己紹介すると、彼女は緊張していた表情を少し緩めて頷いた。
「マウリーン」
「まう?」
 聞き慣れない名前に、ぼくは思わず聞き返してしまった。彼女は耳を赤らめて、恥ずかしそうにもう一度ゆっくりと「マウリーン」と発音した。
 彼女が日本人だと思っていたぼくは、その名前の響きにちょっぴりドキドキした。
「よろしくお願いします」
 そう言ってぼくは頭を下げたが、マウリーンはポカンとしていた。
「対局を始める時には、挨拶するんだよ」
 道場でいつも言われていることをぼくは口にした。
 マウリーンは、よくわからないというような表情を浮かべながらも、ちょこんと頭を下げた。
「おねないします」
 マウリーンの辿々しい挨拶に、ぼくは先輩心をくすぐられた。
「二子はわかる?」
 二子というのは、黒番が予め石を二つ置いた状態から始めるハンデ戦のことである。
 この場合、黒を持つマウリーンが盤面に二つ黒石を置くことができるのだ。
「にし?」
「先に石を二つ置けるんだよ」
 マウリーンは不思議そうに碁笥を見つめ、言われた通りに石を二つ出した。
 しかし、どこに置いていいのかわからないようだった。
「この黒い点があるところに置くんだよ」
 ぼくが教えると、マウリーンは恐る恐る石を置いた。手つきは不器用で、いかにも囲碁を打ったことがあまりない初心者に見えた。
「じゃ、ぼくから打つね」
「黒からじゃない?」
 マウリーンは自信がなさそうに言う。ハンデのない互先(たがいせん)なら黒から打つのだが、ハンデ戦である置き碁は白から打つのである。
「ううん。置き碁は白から打つんだよ」
「オキゴ……」
 彼女は置き碁も初めてなのだ。
「お願いします」
 もう一度ぼくは頭を下げて挨拶をしてから意気揚々と打った。

 対局の結果はぼくの惨敗だった。
 マウリーンは手つきこそ初心者だったが、囲碁の基本どころか、石の生き死にや大局観も身につけていた。
 好戦的な、いわゆる戦いの碁で、接近戦や攻め合いを辞さず、ぼくは四隅を取られて大敗した。
 完全に相手を舐めていたぼくは悔しくて、泣いてしまった。そのころのぼくは負けるとすぐに泣くので、泣き虫ゆうたんと呼ばれていたのだ。
「ありがとうございました、は?」
 と声をかけてきた早苗さんに促されて、ぼくは声にならない挨拶をして、辛うじてお辞儀をした。
 マウリーンは嬉しそうな表情を浮かべて立ち上がった。
「楽しかった!」
 ええ、そうでしょうともと思いながらぼくはマウリーンを見上げた。彼女の笑顔を見ると、悔しさがさらに増してくるように思えた。
 マウリーンは一緒に来ていた女性のところに行って、
「スミョン、勝ったよ! 見てた?」
 と嬉しそうに報告していた。
 その女性は、マウリーンの頭を撫でながら、
「マウ。勝ったは嬉しいネ。でも、負けたは悔しいネ。ですから、相手の気持ちもダイジダイジネ」
 と言った。後にわかるのだが、彼女はマウリーンに囲碁の基礎を教えた先生で、マウリーンの母親の友人だった。
「マウ。ちゃんとお礼するネ」
「うん!」
 スミョンに促され、マウリーンは嬉しそうに頷いて、ぼくのところに戻ってくると、いきなり抱きついてきた。
「ありがと! ゆう、また打とう!」
 ハグなんて知らないぼくは、ただただ顔を赤らめて呆然と立ちすくんでしまった。
 これが、ぼくとマウリーンとの出会いである。

 これで恋に落ちないやつがいるだろうか。

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