舞台、俳優、表現とは何か?その深遠な考察〜郡司正勝「歩く」より②
こんばんは!本日もおつかれさまです。
ベリーダンサーのShala(シャーラ)です。
晴れては嵐となり、天候の目まぐるしく変わるGW、いかがお過ごしでしょうか。
本日明日と、5/22神楽坂セッションハウスにおけるダンス公演「ENTER HEAVEN」のリハーサルです。おかげさまで順調に進んでいます。
90年代後半のこと、舞踏の大野義人先生のお稽古で、先生より紹介され非常に感銘を受けた、郡司正勝著「歩く」より、前回は舞台とは一体どのようなところなのかについて引用しました。
舞台に関する認識が刷新されますが、今度は、俳優についてです。
そもそも俳優とはどのような存在のことを言うのでしょうか。
俳優
刻々と死んでゆくこと、これしか人間には残された徑はない。
人体といい、肉体といい、身体といい換えても、みなボディという物体にすぎない。
そうなりたくないから、装う、餝る(かざる)、包む、着る、付ける。
そして夢見る。それを生きている証據とする。
ただし夢は一夜のもの、一夜の幻にすぎない。そこで、一夜の価値ある夢のために、俳優というものが存在するということになろう。俳優のボディは一夜のよい夢のために用意されなければならない。
よい夢を作らせ、よい夢を売りつけるのが、本当の意味の死の商人ということができよう。
人々がよい俳優を待っているのは、生きるための死の商人を待っているということなのである。
そうでなければ、芸術売買する山師の輩というしかあるまい。
危ういかな、俳優の道。
俳優とは、生きるための死の商人。。
お客様に、この世の憂さをほんのいっときでも忘れるられる美しい夢を見ていただけたら本望ですよね。お客様から見た時、そこにただ物体としての身体が乗っている、というのではいけないこと。物体としての肉体は、超えていかねばなりませんね。
演じるとか、舞うとか、舞台に立つということは、私にとって、あの世とこの世を融通無碍に行き来するようなことに思われます。舞台という特別な仕掛けの中でだけ、それが可能であるがごとく。
その時、自分自身は空っぽになっています。夢のためにすっかり差し出され、意識は鮮明で、起こっているすべてを把握しているけれども、自我でコントロールしているのではないという。変性意識といったらそれまでですが、不思議な感覚です。
そこで、次回は、舞台上で変身するということについて、引用しつつ綴りたいと思います。
それではまた!
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