石楠会関東支部通信 白山の学校の今昔物語
(1)時代の流れで感じること
石楠会関東支部の母体であります、あの白山の学校の今昔物語を皆さんと綴っていきたいと思います。
皆さんは青春の多感な時期をあの白山の学校で過ごし今夫々の人生を過ごしていらっしゃったかと存じますが、今回は、白山の学校の誕生から現在までの歩みを皆さんと大きく眺めてみたいと思います。
白山の学校の誕生から現在までの流れを、社会状況の変遷と一緒に表にまとめてみました。あの頃の自分と今の自分、仲間を思い出して「繋いで」みませんか。
表に展開していて非常に面白い事に気づきました。
社会情勢と学生生活を見ていて、同じ白山の学校の卒業生でも時代背景等により学生時代の思い出の感じ方に違いがあるのではと言うことです。
私が高校時代を過ごした1970年初期、日本国内は学生運動が盛んであり大学には看板が立ち並び大学の授業は休校、ひどい時は大学の受験そのものが中止になるような時代でした。
そんな時代に、外の騒ぎも何も無い非常に落ち着いた環境で高校時代を過ごさせてもらっていたなーと思っています。
受験時期にTVで見た軽井沢の浅間山荘事件の中継や卒業して直にお茶の水で見た「火炎瓶法(仮称)」が成立した時の、火炎瓶が飛び交う中での学生と機動隊の衝突は今でも思い浮かびます。
白山の学校では、あのようなトゲトゲした時間の流れはなくゆったりとした3年間をすごさせてもらいました。もう一つ年表を展開していて気づいたことは、白山の学校を卒業して旅に出てリアルタイムで社会の流れを感じていた自分にも出会うことが出来ました。
多分同じ時代・事象でも、同窓会の皆さんはその時の自分の年齢や立場で違った世界を捉えていらっしゃるのだろうと言うことです。年代の層の厚みのある同窓会と同年代のクラス会との違いをこの今昔物語起案する最中に改めて感じることが出来ました。
(2)白山の学校の流れ
ア.戦後復興期(1945~1955)
(白山の学校の発足)
1945年に大戦が終結し日本はアメリカの施政下におかれ様々な改革が行われました。また1950年に朝鮮戦争の勃発があり朝鮮特需等日本の社会や全ての産業において大きく変わった時代でありました。
白山の学校は、終戦後間もない1946年旧制中等教育学校新潟県町立両津高等女学校として、両津国民学校(現両
津小学校)で開校し授業が開始されました。
1947年に国の学制改革があり翌1948年に高等女学校は廃止され、新制高等学校男女共学の両津町加茂村組合立両津高等学校として現加茂小学校付近に普通科3学級の学校として教育が開始されています。
1949年に今学校のある白山に校舎が建築され、移転し白山の学校となりました。1953年に県立に移管され新潟県立両津高等学校となりました。
(総合学校に向けて)
当時国は公立高等学校については「学区制、男女共学制、総合制」という三つの原則を立てて統廃合を行なったそうです。
そのため公立高等学校を学区制によって設立し、普通課程、職業課程を設ける制度として、これらの課程を総合して経営する学校を奨励した時代でした。
また高等学校に定時制なども併置して、全日制の課程に入学することのできない人達のためにも、後期中等教育の機会を与える方策をとったそうです。両津高等学校も、白山移転時期に定時制課程が併設され1958年まで教育がなされています。
当時の両津は、佐渡と新潟を繋ぐ玄関であり、商業と漁業が盛んな町でした。地元に働く人たちのために地元で必要な教育がなされる統合学校設立の要望があり1954年に被服科が1955年に商業科が1957年に漁業科、1958年製造科が設置され総合制学校として教育が開始されています。
イ.高度成長期の白山の学校
この時期朝鮮特需の影響もあり日本は鉄鋼業を中心とする一次金属、一般機械、電気機械、輸送用機械といった製造業が発展していった時代で「内需主導」の高度成長期と言われた時代でした。
1960年代から1970年代は、製造業と並んで卸売・小売、サービスなどの成長も著しい高度経済成長期の時代でした。製造業は輸出産業であり「内需主導」から「外需主導」に変換した時期でした。当時盛況をなした産業は都会に集中し、卒業生の働く場が都会に集中していった時代でした。
東海道新幹線開通、東京オリンピック、初の高速道路首都高開通・東名高速の開通、大相撲の柏鵬時代、野球の王貞治の55本本塁打、ツイッギー・ビートルズ来日、朝永博士・川端康成のノーベル賞受賞、一方目を転じれば1960年の日米安全保障条約締結や安保闘争、成田の三里塚闘争、東大の安田講堂占拠で学生運動が頂点を迎えた時期でもありました。
白山の学校は、1961年に住吉校舎が完成し水産科が住吉校舎に移転しています。
1967年に白山のグランド整備作業、武道場の建設が完了しています。
世の中は何かと騒がしい時代でしたが、白山の学校は落ち着いた環境で学べることが出来ました。
そして卒業生は、都会に職業や勉強の場を求め島を出て旅んもんになる人達が増えていった時代でもありました。
そんな頃、「卒業生は都会でどうしているんだっちゃ」「現役生の進路指導のため、都会で暮らす卒業生の生の声を聞きてえのうと」白山の学校から東京まで先生が来てくれ都会で暮らす同窓生を集めて、同窓生同士またこれから卒業して旅んもんになる現役生の進路指導で「繋い」でくれたそんな時代でした。
ウ.安定成長期の白山の学校
1973年のオイルショック以降日本は、高度成長期が終了し安定成長と呼ばれる低成長期に入りました。
産業構造は、製造業の成長が低下し「列島改造」議論もあり建設業、金融・保険業の成長が著しい時代でした。
1980年代に入っても経済成長率は低下しましたが、マイコン革命に代表されるように電気機械産業が大きく伸びた時代でした。
1987年この時期経常収支の黒字拡大、貿易摩擦もあり内需振興のための施策が取られ、リゾート開発等の「バブル」が発生し建設・不動産業の成長が著しかった変化の大きな時代でありました。
この時期特徴的なことは、都会に生活の場を求め島を離れる人達が多くなり、結果佐渡の人口減少が進み、島内の高校進学者数は1960年代前半をピークとして1980年代前半には1/2となっております。
この高校入学世代の少子化は現在も続いています。
この時期白山の学校では、1983年に被服科が1988年に漁業科が廃止され、マイコン革命の影響もってか1989年に情報処理科が設置されています。
また、1978年に普通教育棟が1982年に小体育館・1983年に柔剣道場が建設され、木造の校舎が鉄筋の校舎に変わった時期でもあります。
エ.平成不況と白山の学校
1990年代に入るとバブル景気が終焉し、平成不況が始まりました。
金融・保険、不動産、サービス業を除く、製造業をはじめとするほとんどの産業がマイナス成長となり現在につながっています。
この間、世の中ではアメリカの同時多発テロ、自衛隊の海外派遣、リーマンショック、東北大震災、コロナ禍…等、様々な環境変化が起きています。
1955年頃から佐渡の人口減少が進み、2004年には佐渡の市町村が合併し佐渡市が発足しました。
白山の学校でも、受験者の減少に伴い1998年には製造科が、また2001年に佐渡農業高等学校が総合学科を設置した佐渡総合学校として改組された影響もあり2001年には商業科・情報処理科の募集が停止され2003年以降普通科のみの学校となっています。
オ.佐渡中等教育学校の誕生
2008年に中高一貫教育の佐渡中等教育学校が敷地内に開校。
そして、両津高等学校は2013年に最後の卒業生が送り出され両津高等学校は閉校となりました。
2014年から佐渡中等教育学校の卒業生が当会の会員になっています。