灸をする(3)
積聚会名誉会長 小林詔司
『積聚会通信』No.8 1998年9月号 掲載
『養生訓』巻8「養生」の36節と41節は、艾炷の大小や熱さ、壮数について触れている。 つまり灸の補瀉についてである。
「艾炷の大小は灸をしてもらう人の強弱によって決める。元気が盛んな人には大きい艾炷で数も多くていいが、虚弱な人には小さくて我慢しやすくする。」
大小とはどの程度かといえば、「3分(1センチ程)はなければ火気が透らない」としているから米粒大の2倍はありそうで、大きさの基準は今よりかなり大きい。
灸の壮数についてはいろいろ文献があるが、大きさについては珍しい表現で参考になる。さらに「元気な人にはもっと大きくても良い、虚弱な人には小さくする」としているが、小さいといっても我々が今使うゴマ粒大ほど小さくはなかったのではないかと想像する。しかし艾炷の固さについては触れていない。
ところで人の強弱はどのようにして判断するのだろうか。
「熱さを我慢できない人には多くすえない」といったり、「虚弱体質の人には小さくして我慢しやすくするのが良い」といっているから、どうも熱さを我慢できる度合いで身体の強弱を決め、艾炷の大きさも決めているようだ。
しかし熱さを感じることは必要で、それが我慢できる程度かどうか、という点に基準が置かれていることは興味深い。
カサブタ(痂)が厚くなってあまり熱感がなくなると、お灸の効果は弱くなるということは日頃経験する。
「大きくしてこらえにくくすると、気血が減り、気が昇って大いに害がある」という表現からも、艾炷の大きさは我慢できなければ大き過ぎるのであり、そのような身体は弱いということになる。
おおむね施灸には我慢がつきものだが、肌理(きめ)の薄い人や子供では、我慢を基準にすることは出来ない。
もちろん民族あるいは国によっても我慢の度合いは異なる。
欧米人は過敏だとよくいうが、日頃の臨床から感じることは、都会人は過敏になっているということで、これは世界共通ではないかと感じられる。
この我慢できる出来ないは微妙な表現で、実際の臨床上の基準としては不安定のように思えるが、これは陰陽の気を読もうとする姿勢であって、このような見方にこそ慣れなければいけない。
どうして無理に我慢させてはいけないかという理由として、 「熱いのを無理に我慢すると、元気がへり、のぼせ、血気が錯乱してしまう」からだ、としている。
簡単にいえば無理に我慢すれば体力を消粍する、ということであろう。
つまり施灸は体力が消耗しない程度であれば熱くてよい、ということになる。
しかし治療ということになればある程度熱い灸も必要になるが、熱さをこらえられない弱い人にはどうするか。
「最初5~7壮は艾炷の底に塩水を付けたり、塩糊をつけると耐えられる。」
この塩については、『鍼灸重宝記』に次のような表現がある。「灸し終わるときには口にて塩をかみて其灸穴につけてまた2、3壮灸して置くベし」
塩を使うと熱感を緩和させることができるということで、これはー度試す価値がありそうだ。『重宝記』の方では、施灸後の処置として塩を使うとしているから、塩は灸痕の崩れるのを防ぐ作用もあると理解できる。
『養生訓』は1713年の刊、ー方『重宝記』は1726年刊だからこのころは塩を使うのが広まっていたように思われる。