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積聚治療のメッセージ 前編/『積聚治療』出版記念会記念講演

文責 積聚会通信編集部

『積聚会通信』No.27 2001年11月号 掲載

2001年10月8日、日本出版クラブ会館で行われた『積聚治療』(小林詔司著 医道の日本社)出版記念会の当時積聚会会長の小林詔司先生の講演をまとめたものです。

1.はじめに

今日は「積聚治療のメッセージ」と題しましてお話していきたいと思います。

まず初めに、鍼灸治療といわれるものには経絡治療、中医学、奇経治療など、ここで挙げき れないほどたくさんの治療法があります。こういった治療法がたくさんあるということは何を意味するのでしょうか。

多くの治療家はそれぞれの治療理論をもち、それぞれが治療効果をあげています。これはどういうことなのでしょうか。非常に不思議なことですが、これはどの人の治療理論にもなんらかの治療意義があるということがいえるわけです。また、さまざまな治療理論が有効であるということの理由としては、その背景にはなにか共通したものが存在しているという面があるということがうかがわれるわけです。

まず治療家という面からどういう特徴があるかを見ていきますと、年齢、性別、経験年数、 治療方法、社会歴、そして性格、社交性、人格 などがあげられますが、その治療家を特徴づけるものは性格、社交性、人格などの方にウェイトがあるという感触を強くもっています。もしそうでなければ治療法が決まれば治療が安定す るわけですけれど、どうもそうではない。これ は上に挙げた性格以下の内容を重要視しなければいけないということではないでしょうか。

ところが鍼灸学校ではそのようなことより治療方法を重点的に教えていますから、以上のような人間性については、卒業してから鍼灸師として各自が突き詰めていかなければいけない問題であるといえるでしょう。

次に患者さんを見てみましょう。その特徴に は年齢、性別、体質、現病歴、病歴、家族歴、 家族だとか職場の人間関係や衣食住、その他の 環境などがあげられます。私達は現病歴や病歴に重点をおいて患者さんを診ようという意識が非常に強いのですが、患者さんの訴えの背景には人間関係やその他の環境があり、それが病気 を引き起こしているという面が強いだろうと感じています。

治療家というのは病気を治すといいますが、 病気の原因は患者さんにあるわけですから、人間関係やその他の環境に起因する病の原因を追 及しなければ、患者さんをよく診ることはでき ません。

以上のようなことを踏まえまして、これからする話の要点を3つにまとめました。

まず「治療理論の位置づけ」についてです。これは治療家の側の話ですね。ここでは伝統鍼灸関係の古典に則った治療理論というものを、どのように考えるかということについてです。それぞれの治療理論になにか共通性は見出せないかということで 話を進めていきます。

その次に「治療とは何か」についてです。これも難しい話なのですが、患者さんの側に立って、治療効果というものがどのように理解できるかに焦点をしぼってお話ししたいと思います。

最後に、これは積聚治療のもっとも重要なポ イントですが「背部兪穴の治療の意義」ということです。背部兪穴に治療するということをどのように考えたらよいか、一般の治療法とどこが違うかを認識してもらおうと思っています。

2.治療理論の位置づけ

伝統鍼灸で用いられている概念の主なものとして、気論、陰陽論、三焦論、五行論、虚実論、補瀉論、経穴論、経絡論、脈診論、蔵府論、病因論、病症論、証論などが挙げられます。ここに挙げたものは、古典から引用されているという共通点があります。これが非常に難しい面をもっています。

例をあげますと、皮毛という言葉があります。私たち伝統鍼灸では皮膚とはいわずに皮毛という言葉を使いたがりますが、皮毛と皮膚とは違 うと思っているわけですね。

似たようなことに筋という言葉があって、筋肉とはどこか違うという認識をもっている。また、寸口の脈を診るということと橈骨動脈を診るということにも違いを感じています。

このように言葉についての考え方が非常に曖昧になっているようです。ですから伝統鍼灸のこのような概念を理解するためにはその辺のずれをどこか視野に入れて考えなければ、伝統鍼灸の理論というものは空中分解するだろうと感じています。

結論からいえば、今挙げた伝統鍼灸の言葉は概念であり、実体を伴っていないのではないだろうか、ということがいえます。例えば寸口の脈というのは概念的にできあがったものであり、それを橈骨動脈と表現するとどこか違うように 感じるわけです。つまり概念と実体の間に遊離 があるということです。

実体という言葉はまた難しい内容を持ちますが、ここでは肉体という程度の意味としておきましょう。そうしますと概念と実体の間には生理的あるいは病的な現象があり、それらの現象を把握して概念と実体を結びつけるわけです。ところが現象は実体からきているわけですから、概念と実体が結びついていないと現象を見ても何を見ているか分からなくなります。以上のことを図に表してみました(図1)。

図 1

真中の円を「実体」とします。その周りの円 を「現象」、その外を「概念」が取り巻いているだろうということです。

ところで最初に挙げた伝統鍼灸に用いられる語群の中で、現代社会に受け入れられている言葉が1つあります。それは「気」という言葉です。とても古い言葉ですが今の時代になり脚光を浴び、実験などにより実体と結びつけようという動きもあるようです。

私たちが脈を診るときに寸口の脈と橈骨動脈に何か違いを感じるということは、寸口の脈の背景に気という言葉があり、寸口の脈を診るということは気を診るという認識がどこかにあるのではと想像できます。同じようなことが経絡、経穴等のすべての古典的な言葉についてもいえるのです。

つまりこれまで挙げた古典的な言葉は現代医学でいう構造的なものとは違い、気という言葉がその背景にあるわけです。皮毛という言葉にもその背景には気という言葉があり、皮膚とはどこか違う、というように私たちは感じているのではないでしょうか。

ですから気という言葉が実体と結びついているということをよく認識すると私たちの理論も 今の時代と接点がもてるのではないか、また今の医学を私たちの理論の中に取り込むことができるのではないだろうかと思っています。

同じ人間を診るのに古典的なものと現代的なもの、2通りの診方があるというのは基本的におかしいと考えています。つまり、古典的な言葉にもっと実体性を持たせることができるわけです。例えば皮膚も気として捉えることができるのです。ですから皆さんには、気というものにもっと注目してはどうかと提案したいと思います。そのようなことを図に表したものが次の図2です。

図 2

つまり私たちの使っている概念は、気というものを根底においているということです。ただ注意しなければならない問題が1つあります。それは気という言葉は非常に多岐にわたって使われているため、気という言葉の印象が人それぞれに違うということです。

そこで気という言葉を広義の気と狭義の気に分けて考えてみたいと思います。広義の気というものは狭義の気と血という言葉に対応しています(図3)。

図 3

気血という言葉は認識していても、広義の気という言葉はほとんど認識されていません。それはこのような視点が不十分だからです。いい換えれば広義の気を太極とすると、狭義の気は陽、血は陰にあたります。

つまり東洋的な発想というものは、気血とか陰陽とか2つのものを見ているのではなく、1つのものの2面を見ているということです。この点が忘れられる傾向にあります。

この2面というところが強調されすぎて、全体あるいは広義の気ということを認識することが疎かになっているのではないでしょうか。したがってこのような認識が改められると身体の見方も変わってくるのでは、と思っています。

例えば、皮毛であれば血としての皮膚と、温 感、血色やうぶ毛の状態までも含む気としての要素とすれば、実験的なデータをも取り込むことができそうです。

結論として「人間は気そのものである」ということです。ここでいう気は全体的、一元的な気です。1点を刺激して、全く予想しない所に反応が出るのは、身体は一元的なものだからです。そのように認識すると身体の見方が変わり、西洋的なものも、古典的な理論に取り込めるのではないでしょうか。そういう認識を強くもちたいということです。