サウナにおけるパーソナルスペースの一考察
ここ1年でデビューした俄かサウナーの私が語るのもアレだが、サウナとは自分との向き合いだ。「なんかととのうー☆」みたいな生半可な気概では足らない。サウナ室→水風呂→外気浴の「セット」を繰り返し、身体中を駆け巡る血液やリンパ液などの流れを促して、身体の内から湧き上がる多幸感に浸る。
そこに他者とのふれあいなどはない。一連の「セット」なるものを繰り返し自己と向き合い省みた先にある極致、これがサウナの快楽だと思っている。
サウナ施設に通う以上、他者と隣り合わせになるわけで、どうしたって気配は気になる。そこで敏感になるのが「パーソナルスペース」だ。
私はサウナ室では、基本的に他者とは「職場で隣の席に座る人」くらいの幅を取る。視界に野郎の裸体が入らない、自分の世界が保てるゆとりある距離だ。でも、たまに「ラーメン屋のカウンターで隣の席」くらいの近さで座ってくる人もいる。これはかなり気配を感じる。混んできた場合は仕方ないが、そうでないのに隣に来る人がいるのだ。
もちろん、その人にとってのベストスポットとか、サウナ室の熱の当たり具合とか、座りたい場所があるのはわかる。でも、そこに人がいるなら、もう少し距離を置いてもよくないですか?と思う人がたまにいる。
当然ながら、パーソナルスペースの距離感は人それぞれだ。あまり他者に近寄って欲しくない人もいれば、分け隔てなくハグできる人もいる。でも、サウナって全裸じゃないですか。丸腰じゃないですか。いつも以上に感覚が研ぎ澄まされてるし、パーソナルスペースも敏感になってしまう。
高温で熱し蒸されたサウナ室の環境では、耳も鼻も基本的に通るし血の巡りもよいので感覚が敏感になる。視界には野郎の裸体を入れたくないから目をつぶるし、私語を慎む「黙浴」も定着してきたので聴覚が邪魔されることもない。でも、蒸篭の中の小籠包のごとく状態で汗をダラダラかけば、いやが応にも体臭が漂う。お互い様ではあるのだけれど、近づけばそれはより強く感じるようになる。気配に臭いが足されれば、パーソナルスペースの危機はより強化されるのだ。
サウナ室の多くは階段状の席になっている。高温派の人ほど上の方に座るということになるのだが、高低差があるとはいえ、人は前後に座ることになり、ここにもパーソナルスペースの危機がある。なんなら段差部分はさほど広くないので、左右の他者の距離より、前後の他者の距離の方が近い時の方が多い。「学校の集会で体育座りして並ぶ」時くらいの距離だ。
かつて、人が並ぶ行列を工業化社会の産物と評した文化人類学者の野村雅一は、行列とは、見たくもない他人の背中を見せられ、他人に見られたくない自分の背中を見られるという「前憂後患」の二重苦を強いる、とてもストレスフルな行動だと説いている。
流行り病の時代に入ってこの数年、巷の行列の間隔は少し広がったように思う。足元に順番待ちの位置サインがあったりして、公衆衛生的に適切なディスタンスというものが定義されるようになったからだ。
密を避けることが望ましいとされるこの時代、行列に限らず基本的にヒトのパーソナルスペースは以前と比べて広がったように思う。
にも関わらず、サウナでは、ととのいを求めて、全裸の大人が右に左に、前に後ろに急に近づきあって灼熱に耐えるというパーソナルスペースの危機を乗り越え、ひとりの世界を確保し自己と向き合う必要がある。
ソロサウナが流行り始めているのは、こうした背景があるのではなかろうか。自己と向き合うために、他者とは極力距離を置きたい。他者の気配を気にせずサウナに集中したい。とはいえ、ソロサウナもあちこち予約が埋まってて、もはや行列はリアルからバーチャルの世界に移行しているのだが。