焦燥感と怠惰のせめぎあい

 どうも、荒巻しゃけでございます。週5で労働する大変さを感じるとともに、修士の頃と比較してお給料の額の桁が1つ上がった喜びを感じております。今回は、社会人になり、可処分時間が着々と失われるなかで謎の焦燥感が生じたことについて述べていきます。(以下、である調)

労働は楽しい、しかし…

 ちょっと実務を齧った程度の経験値だが、今労働について感じていることを述べたい。

まず、現在行っている仕事は肌に合うようだ。

あの忌々しき就職活動を経た結果、「私は物事について深く考えることが好きである」という仮説を立てたが、今のところ反例は見つかっていない。あの精神を蝕む憎きクソカスイベントと蛇蝎の如く嫌っていたが、今となっては非常にありがたく感じている(けどやっぱり洒落臭い)。

さて、現在の仕事内容を抽象化すると、
・事実を理解し把握する
・帰納的推論を用いて事実から枝葉を伸ばし、想定する
・その間の論理的整合性がつくように検証を試みる
という流れで問題について対処するような仕事である。

これは、約3年間行っていた研究と概ね同じ営みではないか?と考えており、活き活きとした心地で仕事に励んでいる。

 しかし、私の心の中は晴れやかなものではなく、幾分か曇っているようなのだ。この気持ちについて掘り下げていくと、どうやら、
・「人生の可塑性が失われていく」という感覚と
・「自分が何も生み出していない」という事実
に対する焦りから来ているのではないかと思うに至った。

失われていく人生の可塑性

 正直このことについて考えると、胃のあたりがキシキシと痛む。「自分がどの程度の人間になるか」というのは、現状で上限と下限を推定可能である。10年後の自分では、より上限と下限が狭まって来るだろう。

このような感覚を、以前私は「人生が収束していく感じ」だと表現したが、「このように収束して良いのか?」と問いかける自分もいる。この収束しつつある人生に一石を投じ、振動を与えたいと考えている自分が怠惰な自分を急かすのである。

私の心に影差すのはそれだけではない。心の柔らかい部分にじり寄ってくる焦燥感である。

謎の焦燥感、現る

 「自分が何も生み出していない」という気持ちが、頓に自分の中で実ってきている。仕事においても何らかのものを生み出す予定であるのにも関わらず、なぜこのような焦燥感が生じるのであろうか?

 私の感じている仕事とは、いち企業の中で部分的な業務を担当して皆で作り上げていくというもので、自分の失敗は先輩の成功によって吸収される。

これは、分業の良い点であるが、新人たる私のミスは結局先輩の手助けによって成功に転じるあたりが、生温いように感じている。自分の失敗も自分の成功も、自分の作成したものに込めたいという気持ちがある。この生温い空間に浸っているだけでなく、ピリついた空間に身を置きたいという気持ちがある。

 それならば、起業や独立をするという結論に至ることは明白なのだが、現状その可能性は考慮していない。実力・経験・自信・金銭的余裕 etc…を欠いていることや、持ち前の石橋を叩いて壊す臆病さから、理性が「社会の歯車たれ」と語りかけ、私を引き止めているのだろう。

つまり、現在の私は「自分探し」と宣いながらインドへ数日だけ旅行に行っちゃう女みたいな状態で、自分の安全圏は確保しながらも靄のかかる気持ちを晴らすために安全圏から出るポーズを取る、というような状態だ。

嗚呼、私の何たる小賢しさや。

(なんかBleachっぽさあるな)

作ろう

 というような、自分の愚かさについて声高に述べた。しかし、ポーズだけなのは恥ずかしいよなぁ!!!っつーことで、現在私は何かを作ったろうと思っている。手始めに、自宅にある書籍管理システムを作ろうと考えていた(考えてから3ヶ月ほど経っている)。

 自分は多趣味であるが、全て中途半端の雑魚である。そこで、少し趣味を絞って、自分の持っている中途半端な熱量を「なにかを作る」ことができる程度には、かき集めようと考えたのである。

 自分の中で、「半分はどうせこんなこと言ってても、途中で飽きていくのだろうな」という諦念がある。正直この文章を書いている時点で心も筆も折れかけている。しかし、やれるだけやってみようと思う。収束しつつある人生に振動を与えたほうがなんか楽しそうだしな。

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