残り物への当事者意識

はじめに

最近実家から出て、暫定的に一人暮らしをしている(現在は同居人の引っ越しを待っている段階なので、「暫定的」とした)。子供部屋でWebの上を飢えた目で彷徨う、いわば、Hungry Spiderの状態を脱し、荷解きや家具の組立、自炊といった、『生活』をしている。

その中で、1つ気付いたこととして、実家にいた頃よりも残り物への当事者意識が生じたことが挙げられる。

本題

残り物への当事者意識とは?

まずこの語彙が何を意味しているかだが、「残り物の食材を消費期限までに使う」という意識のことである。

なぜそう思った?

なぜ、この残り物への当事者意識が生じたと感じたかは以下の事実に依る。

  • 豚肉を消費期限までに使い切るアタリをつけている事実

  • 漬物を買って、消費期限以内に食べきっている事実

エピソードとしてはこんなもんだが、「使い切るぞ」という意思が実家にいた時よりもしっかりとある。

元々どうだった?

実家にいた頃は、母と2人暮らしだったのもあり、どこか「母も食べるかもしれない」と思って一部残すというような、遠慮のカタマリを冷蔵庫に堆積させており、「消費期限切れを駆逐する」事に対し、甘えがあった。

また、母は野菜を安いという理由で買ってくる人間なので、溶けた野菜が野菜室にシミをつくり、しばしば野菜室の掃除を行わねばならぬほど汚すのである。また、肉類も買ってきては平気で腐らせるので、大した女である。
冷蔵庫の余りで2,3品作るような、$${\textit{JAZZ}}$$的調理技術はいまだ身についていなかった(未だに途上ではある)ので、消費期限切れの食材を使っては食中毒に脅かされつつ食事したり、いくつかの食材は泣く泣く廃棄していた。

なぜそうなった?

ざっくり考えたところ3点挙げられる。

  1. 食材の供給が制御できるようになった
    まず、「自分が買ってきた分は流石に腐らせるわけにはいかんだろ」という考えのもと、必要な分買っている。一応買っておこうと判断するのは長期間保つような食材(e.g. 乾麺、レトルトパウチ包装…)としており、過剰な野菜の供給はなくなった。

  2. 食費を意識するようになった
    食材を腐らせた場合、結局金銭面でダメージ食らうのは自分なのだと理解した結果、食材はきちんと使い切らねばならぬと思うようになった。

  3. 腐らせた場合の処理を考える必要が出た
    2.と類似しているが、こちらは金銭面ではなく、手間の面でダメージを食らうという点で面倒くさいため、残り物への当事者意識が強固になった。

今後どうなりそう?

現状は、残り物への当事者意識はビンビンに高いが、今後生活が変化することにより、どうなるか考えよう。
大きく変化しうる2点は以下の通りである。

  • 同居人がまだ来ていないが、そろそろ来る予定

  • 労働を免れているが、そろそろ働く予定

前者は「同居人も食うやろ」という考えから、
後者は「忙しいしまぁええか」という考えから、
共に当事者意識の欠如を招きそうだと懸念している。食費も浮かせたいし、なにより美味しく食材を食べたいため、残り物への当事者意識は維持していきたい。

終わりに

まとめると、実家にいた頃の話は、「使いきれなかった私も未熟で良くなかったが、母もなかなかどうして消費期限切れの原因だな。」とは思ったのは内緒。

「私は好きにする、皆も好きにするといい」の精神で消費に勤しもうと思う。同居人に怒られるかもしれないが、ならば良かろう、光速の五体投地を見せようじゃないか。

参考文献

noteにおける欧文イタリック表示の試み。
https://note.com/gotshu/n/nc99e98672ff9#59655361-e1d0-46e9-aaa5-adc830eb3c80

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