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”両極端な感情”の存在と容認

「一貫性がないのは、良くないこと。」

これは誰かに言われたり本で読んだりした訳ではないけれど、自分の中で刷り込まれていた感覚だった。特にそういう風に感じてしまう場面としては、「科学者」として働く母が誰かと揉めて、感情的になっている時だった。

「科学者=論理的」なはずなのに、なぜ言い争いとなると感情的になってしまうのだろう。そのことがなんとなく許せなくて、矛盾を感じて、受け入れられなかった。
他人のことであれば客観的に見ることができる。まぁこういう人なんだと。けれど自分の中に芽生える両極端な感情は、結果的に自分を責めてしまう原因となってしまっていたことに気がついた。

基本的には人間が好きなはずなのに、誰かのことが羨ましいと感じる時や、誰かに嫌な態度をとられた時には「人間なんてキライ!めんどうくさい。」と突き放しすような気持ちが生まれる。少し冷静になってから、そのことを考え直すと「いつもの自分と違う。なんでそんな負の感情を思ってしまうのだろう」と自分への信用を失うきっかけになってしまっていた。

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今日も、そんな気分で帰って来た。1ヶ月ほど前に急な異動があり、あまりにも急だったのでイエスとしか言えず、そのことをずっと消化しきれずにいる自分がいた。

「今の部署は嫌だな、もし元の部署に私がいれば…」と沈んでいく気持ちと、「新しいことに挑戦できるチャンスだ、こっちの方がキャリアを詰める可能性が高いから」と鼓舞する気持ちとが、日々揺れ動いていた。そして、その「一貫性のない感情」にすごく振り回され、いつしか小さなストレスが積み重なっていた。(最近おでこのニキビが消えないのはそのせいなのかしら)

一方で、自分は何かについて考える時に「1か100かのどちらか」の結果を求めているということには、結構前から気づいていた。けれど、その”両極端さ”が特に気にならない時と、それがすごく負荷になっている時があることには気がついていなかった。

”両極端な感情”の存在をまるっと容認してしまえばいいのだ、とふと思った。

日々違う考えだっていい、流動的でいい。毎日環境の条件は少しずつ異なっているのだから。その日の体調、天気、仕事の締め切りがあるかないか。あるいは対する相手の条件も日々異なってくる。だからその時々に自然な感情が生まれているだけで、両極端な発想をすることは至って普通のことなのだ。何も後ろめたいことではない。

そのことに気づけたからか、心がちょっと軽くなった。そして、これからは自分も母も許せるようになれるだろう。こんな日は、お酒を飲むんじゃなくて、家でのんびりお茶でも飲むのがいいかな。

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まりも
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