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190702 寝れないよる、家族のこと、日本人

予定がないと、身体のテンポがすぐずれる。

7月に入って特段予定がない週で、実家に帰ってゴロゴロしている。そういうときは、緊張感がないのか昼頃までは目が覚めたとしてもベッドの上にいて、14時頃からやっと作業に取り掛かる。基本的には外には出ずに、1日同じ部屋着で過ごす。与えられたことがなければやる気のない、なんとも自堕落な人間なのだ。

「今日は(本来住む家に)帰ってるかもしれない」と母が置き手紙をしてくれているのだが、帰ってきたら、朝見た格好と同じままで横たわっているのだ。やれやれと思われているだろうが、ちょっと嬉しそうではある。

父は真面目な人間で、朝早く起きて夜遅くまで働き、0時前には寝る。毎日が、1週間が同じペースで過ぎていく。いい意味で欲がないのだが、私からするとなんともつまらなく映る。そんな父だから、私のような落ちぶれた怠惰な人間は、どうかと思っているのだ。ただ娘としての存在は可愛いので、来た1日目だけは機嫌がいい。それ以降は煙たそうにする。そうなると私も空気を感じ取って、無性に居心地の悪さを感じるようになる。

母は大体2時頃まで「やらなきゃいけない仕事がある」と言って、パソコンに向かう。パパッと手際よく終わらせるようなタイプではなく、だらだらと進めているので、深夜にはいい話し相手になる。

そんなわけで、そんな思いで夜の時間を過ごしながら、深夜の時間に突入したわけだが、まだまだ交感神経が優位な状態で眠れない。

そりゃ昼まで寝てるわけだし、白色の蛍光灯の下ではどうも眠れない性質なのだ。実家の光は全部これなので苦手だ。じゃあ電気を消せばいいのではないかとも思うが、眠くもないのに眠るように仕向けるのは、少し勿体無いような気もして、あくびが止まらず瞼が重たくなるまでは少々本でも読んでいることにした。

弟の本棚に手を伸ばす。漫画か本、ジョジョの奇妙な冒険、ラノベ小説、純文学。「思考の整理術」なんて本もある。我が弟ながら変わり者で堅物、しかし本の並びからもわかるように博識でユニークな発想を持つ男だ。彼のセンスを姉は昔から買っている。今は大学院生で広島にいるため、この家には当然おらず、無秩序がはびこる家庭において、弟の部屋は母のデスクとフリーのベッドに侵食されている。そんなわけで寝っ転がって、本棚に手を伸ばし文学の短編集の中から、坂口安吾の「散る日本」を読んでいるところである。


昭和22年の頃の話であるが、戦後の重たい空気、弱腰な政治、そんな雰囲気がどこか今の日本に通づる。話のメインは将棋戦を見守る安吾の視点であるが、私は文中から垣間見える「日本人」の素質についておもうところがあった。

小説のはじめの方で、戦法といえば織田信長と例に挙げ、そしてその強さは信長の心構えにあって実質的に優勢で、常に独創的であった点だと述べている。そしてその後に続く文章、

“日本人は独創的でなければならぬ。日本人は独創的という一大事業を忘れて、もっぱら与えられたワクの中で技巧の粋をこらすことに憂身をやつしているから、それを芸だの術だの神業だのと色々秘伝を書き奥儀を説いて、時の流れに取り残されてしまうのである”

うーん、この頃から安吾然り多くの芸術家たちがこのようなことを伝えてきて、そしてそのまま変わらずにいる今の日本人なのだなと思ってしまった。

最近よく使われる「思考停止」ということなのだろう、独創的であることは個人/組織/国を推し進めていく力を持つのに、それを権威が押さえつけてしまう。もちろん独創的な人々は多くいていつの時代も目立った存在であり、スターである。そして「独創的であれ」と説く。「普通でいい」という人は見たことがない。それでもやはり根本的な素質は、72年間の間でほとんど変わっていない。少しばかり悲しいが、メタの視点、文化人類学の指標で見たら、根っこから変化するなどあり得ない短い時間なのかもしれない。

文章の話に戻り、将棋の戦いの観戦を終え名人は負けてしまう。その姿を受け、負ければ落ちねばならぬ、常に実力のみが権威でなければならぬと語る。

“元々相撲の横綱などというものが、もっとも日本的な一匹の奇怪な幽霊で、その位置にあがると、もはや負けても位置が下がらない、こういう形式的な権威を設定するところに、日本的な間違いがあった。”

“つまり横綱の世界で、実力無くして権威たりうるから、風格によって地位を維持する。すると人々は(日本人は)実力よりも風格を信じ、風格があるから、偉い、という。
日本の政治が、政治家がそうだ。文学まで、そうなのである。(中略)敵と妥協し、商談して、まとめ上げる手腕などが政治だと思い、政策、政策の実行、その信念、それを二の次にしている。”

この話は戦後直後で、だから負けたんだと言ったようなことをこの後書いているのだが、
まさに今の日本の組織、そしてそのトップである政治に対しても同じことが言えるのではないか。

風格で権威を主張し、真の実力者を隠してしまう。政策を進めるのではなく、さらに権威があると思われる国に対して交渉というなのへり下りで、ご機嫌を取りに行く。

このような状況で、果たして、新しい日本に生まれ変われるのだろうか。元号は変わっても、政治家の姿勢がこのままで良いのだろうか。私は信念を持ち、政策を実行する組織や政治に期待する。そういった下で自分なりの独創的な思考で暮らしていきたい。

直感的に「今読むべき話だ」と思い読み始めたのだが、現代にも通づる的を得た指摘・視点であるなと感じた。こういう話がもっと世の中に広がればと思うのだが、一方で押し寄せる情報の波に耐えきれず、私は静かにTwitterの一切を休止し、久しぶりにnoteを書いたのであった。

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