#254 同時多発テロはなぜ起こったのか?
2001年9月11日、後に世界を変える大事件、同時多発テロが発生した。
4機の飛行機がハイジャックされ、ニューヨークの世界貿易センタービルとワシントンのペンタゴンに突っ込み、約3000人の犠牲者を出した未曽有のテロ事件である。(※4機のうち議事堂を狙った1機は乗客らの抵抗に合い、ペンシルバニア州ピッツバーグ郊外に落下した)
1機目が世界貿易センタービルのノースタワーに突っ込んだ後、燃え盛るビルは世界中で生中継されていた。2機目の飛行機がサウスタワーに突っ込んだのは生中継の最中。
そのため、世界中の人々が飛行機がビルに突入する瞬間を生中継で目撃した。かく言う私もその1人である。日本時間では午後10時ごろ、食い入るようにテレビを見ていた記憶が鮮明に残っている。
なぜこのような悲惨なテロが起きてしまったのか。
その背景を知るには、1970年代以来の中東地域とアメリカの歴史を知らなければならない。
1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻した。
宗教を否定する共産主義勢力の侵攻に対し、アフガニスタンには、エジプト、サウジアラビアなど多数のアラブ諸国からイスラム教徒が集まり、義勇兵としてソ連の侵攻に反抗した。
義勇兵たちは、「ジハード(聖戦)を遂行する者たち」という意味の「ムジャヒディン」とよばれた。
同時多発テロの首謀者と言われているオサマ・ビンラディンもその一人である。彼は、世界中から集まるムジャヒディンの名簿づくりに携わっていた。この名簿づくりの組織が「アルカイダ」と呼ばれるようになる。
「アルカイダ」は日本語では単に「基地」という意味で、設立された当初はテロ組織ではなく、名簿づくりやムジャヒディンの育成を目的とした組織だった。
ちなみに、この時世界は東西冷戦の真っ只中、ソ連と敵対していたアメリカは、アフガニスタンで戦うムジャヒディンを支援した。皮肉にも、一時とはいえアメリカはビンラディンを支援していた時期もあったのである。
ソ連軍の死者1万5千人、アフガニスタン国民の死者150万人という甚大な被害を出した戦争は、1989年にソ連が撤退することで幕を閉じた。
しかし、アフガニスタン内部では残されたムジャヒディンによる内戦が発生する。
アフガニスタンからの難民が流れ込んだ隣国のパキスタンでは、難民の子どもたちに対してイスラム原理主義の思想教育を行い、教育を行った学生たちに武器を与えてアフガニスタンに送り込んだ。これが過激派組織タリバンのはじまりだ。タリバンは「学生たち」という意味である。
東のインドと対立関係にあったパキスタンは、アフガニスタンに親パキスタン政府をつくり、後方の安全を確保しようとしたのである。
タリバンはアフガニスタンの内戦を制圧。アフガニスタンにはタリバン政権が誕生する。
タリバン政権樹立の動きと並行して、中東では湾岸戦争が勃発した。
1990年、イラクがクウェートに侵攻。翌年、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクを攻撃、イラクをクウェートから撤退させた。
湾岸戦争により、クウェートの隣国であるサウジアラビアはイラクの侵攻を恐れるようになる。そこで、サウジアラビアはアメリカ軍の駐留を要請。アメリカはこれを承諾し、アメリカ軍がサウジアラビアを守る構図は「砂漠の盾作戦」と呼ばれた。
これに猛反発したのが、アフガニスタンから帰郷していたオサマ・ビンラディンだ。サウジアラビアはメッカやメディナといったイスラム教の聖地がある国。イスラム教の国を異教徒のアメリカ軍が守るということに拒否反応を示したのである。
アメリカ寄りのサウジアラビアから追放されたビンラディンは、かつて活動していたアフガニスタンに戻り、客人としてタリバンにもてなされることにんった。ビンラディンはアフガニスタンで反米感情を募らせていった。
かつてソ連に対抗する義勇兵の名簿づくりの基地だったアルカイダは、ここにアメリカと戦うための基地となったのである。
ビンラディンはアフガニスタンでアルカイダの基地をつくり、そこで要請された兵士たちが、ビンラディンの命をうけ同時多発テロを起こしたのである。
彼らの目的はアメリカへの復讐と制裁。その場として世界の富の象徴だった世界貿易センタービルを選んだのだ。
甚大な被害を出した同時多発テロ。
アメリカはブッシュ大統領のもと対テロ戦争へ突入する。
アフガニスタン侵攻によりタリバン政権が崩壊、イラク戦争によりフセイン政権が崩壊するなど、アメリカが戦果をあげていった。
2011年には、オサマ・ビンラディンがアメリカ軍に殺害された。
しかし、その後にイスラム教過激派組織イスラム国が台頭したり、アフガニスタンのタリバン政権復活するなど、イスラム圏を中心とした世界の混乱は現在でも続いている。
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