VR流れ藻(21-A):アバターという概念をめぐって・前編
「Doppelganger 2019」というワールドがある。
白い部屋の中に、わずかなオブジェクトが浮いている。近づくと、奥の壁をすり抜けるようにして誰かが駆け寄ってくる。それはドッペルゲンガーだ。あなたであって、あなたでない存在。あなたが右手を振れば、相手も同じように右手を振る。ここにあるのは平面の鏡ではなく、円筒形のオブジェクトを中心軸として映し出される、立体的な鏡像のシステムだ。
2019と名に冠している以上、もう随分前からある。もう随分前からhome worldに据えて、わたしは設定を動かしていない。
ログインする。デスクトップから起動して、HMDを装着する。コントローラとトラッカーのスイッチを入れる。立ち上がって前に進むと、鏡像が現れる。フルトラッキングのキャリブレーションをして、手足の動きを確かめる。声の調子も確かめる。決まりきった手順が終了する。
見慣れた相手が目の前に立ち、いつものように微笑んでいる。鏡像に過ぎないとは言い条、それはわたしであり、わたしでなく、そのどちらとも言い切ることのできない誰かだ。
アバターという概念の話をするのは難しくて、何度も書いてはやめにしている。今回の試みもうまくいく自信がない。まとまった話をしようというのが無理なのかもしれない。どうもこの概念は人によって位置づけが違っていて、感覚や意見の一致をあまり見ない。VRChat内で突っ込んで話すにはいささか手垢の付きすぎた話題のようなところもある。それでもそのうち誰かが手際よく整理するだろうと思っていたが、そういった気配もないまま、いつしかこれをさほどの関心事としないユーザーが普通になっていた。
まあ別にアバターの概念に関心がなくてもいいのだけど、さすがにsampleのロゴを年単位でぶら下げているのはやめたほうがいいとは思う、格好悪いし、意外とその辺に製作者がいたりもするから。なんて、そんな感覚さえおそらく過去のものになりつつある。時は過ぎ、メタバースの宇宙はどんどん膨張して、星のように輝いていた人々がはるか彼方へと遠ざかっていく。
わたしたちは愚かしくも取り残される。ときおり仮想の浜辺に立って、誰に向けるでもなく砂に文字を書く。あるいは遠く隔たった人々に向けて。やがて波が洗い、文字は流れ、思考も流れ去る。インスタンスが消え、わたしたちは無になる。
ジャン・コクトーの『阿片』という本がある。これはメタバースとは何の関係もない。詩人が阿片中毒の治療中に書いた、とりとめもない雑想録のようなものだ。雑多すぎて通しで読んでいると飽きるのだが、ピカソの住居を訪ねた際にエレベータの中で天使に出会った話なんかが書いてあって、これはわたしのお気に入りだ。美しい断章がいくつも収まっていて、まとめられない思考はまとめられないままでいいのかもしれないとも思う。
どこかの古書の露店で手にした文庫本は、いまや古びてチョコレートみたいな匂いがする。メタバースに匂いはなく、そこから古書を持ち帰ることもできない。わたしたちはただ概念となってそこを訪れ、概念を交わし、概念だけを持ち帰る。
良き隣人
以前書いたぽこ堂でのイベントの後、どういう流れだったのか、フレンドがアバターという存在の位置づけの話をしていた。その人は、自分の手を引いてくれるような存在、自分の隣に居てほしいような存在だと語った。
個人的な感覚として、これはかなり近い。近いが、その感覚はもう少し込み入っていて、容易に説明できる気がしない。そもそも自分の隣に居てほしいような存在を駆動しているのが自分自身であるというのは、事態が奇妙にねじれている。
「好みのアバターだが、自分で使うのは何か違う」という話はよくある。これは道理だ。自分が好ましく思う他者は自律駆動する存在であるのが自然であって、別に自分がその他者になりたいわけではない。他者でなければ他者として触れ合うことはできない。自分自身が演じる劇を自分自身が観客席で見ることはできない。自分自身が動かす操り人形に神秘はない。
そうだろう。だが、本当に?
フルトラッキング
身体の自由は大切だ。VRChatにおける身体の自由度は概ねデスクトップ、3点トラッキング、フルトラッキングの順に上がる。フルトラッキングにも6点とか11点とかで精度の差異があり、どこまで求めるかは人による。
フルトラッキング用デバイスもいつしか随分種類が増えている。HaritoraX、SlimeVR、mocopiやら何やら。Viveのトラッカーも新型になったというが、こちらではいまだ初期型が現役を張っている。いずれにせよアバターの身体を自由に動かしたいという需要はたしかにあるらしい。
自由に動かしたい、というのは少し違うのかもしれない。実際には逆で、自由に動かないことが苦である、というほうが自分の認識には近い。自由に四肢を動かせるということはまさに当然の自由であって、見た目の問題にすぎないとしてもそれが不可能なのは制限であり苦痛である。
ただしどうやら、実際にはフルトラ機器があってもまれにしか起動しない人はかなりいる。機器の種類によっては準備に手間がかかるということもあるのかもしれない。一方で使っているがほぼ寝そべっているだけという人もいて、元々それがやりたかったのか惰性的な結果なのかは判然としない。それでも自然な身体のふるまいの表現は、見る側にもアバターやその向こうの人物の存在をよりはっきりと感じさせる。
フルトラッキングの第一の効用は、ダンスなどの高度な身体表現を可能にすること以前に、根底的な存在感の向上にある。ただ人が座る、立つ、振り返るといった動作さえもがひとつの身体表現であり、そこには必ず個々人の在り方が反映されるからだ。そして、そうした動作をさらに意識的な身体表現へと置き換えていくこともできる。
存在の夢
古来、人は存在の夢を見る。本来存在しえない存在を夢見て、この世に在れと思い、それを形にしようとする。誰もがそうだというわけではない。しかしそうした営みがたしかに在り、連綿と在り続けたことは、たとえば無数の神仏の像が無言のうちに語り伝えている。神仏は概念を司る存在であり、また存在しないものの最たるものだ。
現代の人々もまた、存在の夢を見る。例えば物語の創作という形で。何らかの要素、属性を帯びたキャラクターを創造し、物語世界という場で演じさせる。漫画、アニメ、ゲームの文化がそうした物語の土壌であることは言を俟たない。一方でキャラクターの要素や属性への分解と再構築を徹底的に推し進めたのは、かつて美少女ゲームや「萌え」という言葉が象徴した文化ではなかったか。
分解された要素は土壌へと還り、循環してまた花実をつける。現在のメタバースの文化もまた、そうした土壌に拠って立つ。黎明期、MMDモデル櫻花ミコが大流行し、おそらく初のVRChat向け販売アバターであったアークトラスに端を発したアバター販売の隆盛は今日まで続いている。
アバターや装飾品を主要な展示とするバーチャルマーケットは2018年以来継続しているし、膨大なアバターを収蔵展示するAvater museumのworld数はすでに九つを数えた。そうしたアバターを制作する人々のためのアバター自作交流会も続いているようだ。Groupインスタンスで開催されるようになって以来覗いていないが、かつてはわたしでさえそうした場所に出入りするくらいにアバター自作が身近であった時代がたしかにあった。
すでにアバターは自作するものではなく、購入してカスタマイズするのが主流となって久しい。新規VRChatユーザーの一体どれだけが自作しようなどと思い立つのか定かでない。何なら購入アバターを自分でアップロードしようとするかさえ若干あやしい。どうにも手順が面倒すぎるきらいはある。
選択
システム的なことはともかく、アバターの選択はユーザーにとって一種の通過儀礼である。この世界では自分がとる姿を意識的に選択しなければならない。姿は可換なものでしかなく、しかし第一にあなたが何者であるのか伝える。それはあなたに接する人々の最初のふるまいを左右するだろう。グロテスクな怪物や筋骨隆々の大男は人を警戒させる。美少女はさにあらず、という一般論は概ね正しい。つまり美少女は無難な選択でもあるが、無難な選択などというのは大体において面白くない。
あなたは選択しなければならない。手札から一枚を選び、場に差し出す。人々がその札を見やる。
あえて美しくないものを選ぶという自由もまた、ここにはある。
あえて選ばないことを選ぶのも自由だ。どこまで手番をパスし続けることができるのか、明確なルールは誰も知らない。
古き良き時代
わたしが最初に居たコミュニティは、随分賑やかなところだった。まだ開け放たれたばかりだった広大な遊び場に、夜毎たくさんの人々が群れ集った。大きなインスタンスが満員になることもざらで、あれほど連日賑わっていたコミュニティをわたしは未だ他に知らない。
精力的にワールドを巡り、ゲームで遊び、アバターやワールドを制作する人々。アバター販売はまだ始まったばかりで、毎日のように誰かが趣向を凝らした自作アバターを披露していた。あるいはあの奇妙な創造。パラディンを素材として一体どれだけの多様なアバターが捏ね上げられたのだろう。おそらくその数は三百は下らないはずだ。もしあなたがパラディンを知らないなら、Avatar欄のLegacyのところを探してみるといい。彼は今でもそこにいる(と書いて後から確認したところ、いつの間にか消えていた。まったく何ということだろう!)。
本当にさまざまな人が、さまざまなアバターがいた。くくりとして美少女が多かったのは確かだが、決してそれだけではない。古き良き日々。連日夜を徹するようなお祭り騒ぎの中で、しかしわたしはやがて、自分はあの輝かしい創造性からは遠く隔たったところにあるのだという漠然とした思いを抱くようになった。
食べ物、デザイン、ファッション。何であれ個人の好みというものはある。あまり好き嫌いがないということもある。多くの中から何かを選び取るのなら、好みははっきりしていたほうがいい。
アバターの選択も同じだ。重視する要素が明確であれば、それが選択の基準となる。リアルなものを除けばアバターの多くは一種のキャラクターであり、何かのコンセプトに従って構築される存在である。コンセプトは要素の集積によって実現され、細分化した要素を的確に積み上げるほど強固となる。選択する側はそうしたコンセプトや要素を読み取り、選択の足掛かりとする。
キャラクターの要素、属性の細分化を推し進めた文化のことは先に触れた。あのコミュニティを織り成していたのは、アニメやゲームを取り巻く広範で奇妙なインターネット文化圏の一角に吹き溜まっていた人々で、みな驚くほど多くのことを知っていた。あの多様性と恐るべき創造性は、確実にその知によって裏打ちされていた。
チュートリアル
チュートリアル。もしあなたが新規ユーザーであるなら、とりあえずAvatar Museumあたりに行って、適当に使いやすいサンプルアバターを見繕ってくるといい。メニューのアバターリストから選べるものも今では随分多様になったが、ちょっと広範に過ぎる。行ったら行ったで多すぎて困ったりもするけれど、まあそこはなんとか。
さて、アバターの選択には二段階ある。新規ユーザーの暫定的な選択と、より意識的な選択。最初の時点で多く選ばれるのは、美少女枠にしてもあまり美少女然としていない中庸なアバターが多いように思う。例を挙げると何かに差し支えそうだからやめておく。実際購入するならもう少し吟味してから、万事の勝手がわかってからということになり、それが第二の意識的な選択になる。
ただ、最近はあまり最初の選択から離れない人が増えた印象がある。それが良いとか悪いとかいう話ではない。選択すること自体が難しいという声も聞く。それはたぶん、ユーザー層が広くなるにつれて、キャラクターの文化に馴染みが薄い人々の割合が増えたことに由来しているのではないかと思う。キャラクターを読み解いたことがなければ、アバターが内包する要素を読み取ることもまた困難であり、細かな差異の見分けがつかず、良し悪しの判断ができず、ゆえに選択は困難となる。
それでどうすればいいのかと言うと、うーん、そうだな、漫画でも読むといいんじゃないかな、みたいな話にはなる。あるいは、自分が素晴らしいと思えるもの、美しいと思えるものを何であれ探し求めるのがいい。きっとそれが何かの足掛かりになるだろう。あるいはものではなく、ひとでもいい。
美しい存在
驚くほど美しい存在に出会うことがある。
わたしが出会った人たち。わたしがかつて出会ったことのなかった人たち。所与の肉体を脱ぎ捨て、意志を形としてまとった透徹した魂。
アバターを自作する人に多いが、必ずしも限らない。フルトラの人に多いが、デスクトップの人にもまれにある。姿、振舞い、言葉。すべてが調和した美しさがあり、その人にしか持ちえない魅力がある。そのような人とときおり出会う。あるいは長く接しているうちにやがて気づくことがある。
現実世界でどのような人であるのか想像もつかない。出会えばごく普通の人であるのかもしれないが、わからない。そのような美しい人たちがここにはいるから、わたしはまだこの世界にいる。
精錬されたアバターはプリズムのように機能する。入力されたひとすじの光が分散し、鮮やかな色彩のスペクトルが現れる。あるいは濁った色彩を漉しとるフィルターのように機能する。いずれにせよそれを通過することで、存在は美しく澄んで見える。
それは元の存在から何かが削ぎ落された状態であり、存在のすべてではない。それを理由に、この状態をある種の偽りと見る人もある。だが、わたしたちが誰かと接するとき、元よりその人の存在のすべてを知ることなどありえない。家族であれ、恋人であれ、友人であれ、他人とは常に神秘であって、決してそのすべてを知り得ない。ただ自分が立っている位置から、ある大きな存在の一側面を眺めているに過ぎない。
あなたが好きなのはわたしのアバターであって、わたしではない。
かつてそう言われたことがある。この見解に異議を述べる機会は失われた。以後アバターという概念を考える時、この言葉はひとつの問いとしてよみがえる。しかしながら、部分の煌めきを以って全体の美しさを推しはかることは決して不当な行為ではないと、今もわたしは信じている。
色彩は幻想だ。それは光の波長という物理現象に対し、ヒトの脳が勝手に施したひとつの解釈であるに過ぎない。わたしたちはその美しい幻想の中で日々を生きる。
この世界の美しさすべてが幻想であるとしても、それはすべてが偽りであり無価値だということではない。
(後編に続く)