photo#03 : 昼と夜なら夜のほう
撮れなかった写真がある。
年初め、初詣に出かけた。人で賑わう大阪天満宮の本殿に賽銭を投げて境内をぶらりと回ると、塀の上に二、三の鳩がある。空は薄曇りの合間に陽が差して、灰色の雲を背に逆光の影がくろぐろと並んでいた。それは何気なく、しかし印象的な陰影だったが、逡巡して結局撮らなかった。単純に人混みの真ん中で足を止めるのが憚られたのだった。
撮れなかった写真というのは不思議なもので、意外とよく覚えている。横断歩道の向こうで傘を差して立っていた人と、その後ろにあった建物の鮮やかな色との対比のこと。ああいう時どうするのだろうと思う。慣れた人なら素早く撮って挨拶に行くのかもしれないが、基本人は撮らないのでよくわからない。まあそんなもの撮ってどうするのかと言われればそれはそうで、しかし撮ることや撮れなかったことに意味がないとも思わない。
よく言われるように、写真をいくらかやっていると、いろいろなものごとの美しさと向き合うことになる。かといって日常のあらゆる美しさの前で足を止めてはいられないから、そのほとんどはやはり自分の意識をすり抜けてゆく。意識の網にかかったものさえ、多くはあの鳩たちのように自分の手をすり抜けてしまう。それらの残りが写真となる。
もうひとつよく言われることに、光を捉える感覚がある。
写真撮影は露出、つまり受ける光の量を制御する。露出の不足、適正、過多によってどのような像が得られるかをまずは学ぶことになる。画面のどこにどうやって露出を合わせるだとか、光の来る方向、光の色(ホワイトバランス)だとかの問題がその後に続く。そうこうしているうちに撮影によい光みたいなことがなんとなくわかってくる。
優れた感覚を備えた人たちともなると、光と影それ自体を主題にしたり、巧妙に組み入れた写真を見事に撮ってみせたりする。この感覚を指して、第六感のようなもの、と言い表すのを見たことがあるが、言い得て妙だ。残念ながらわたしにはそうした感覚はなく、いま都合よく参照できる例が見当たらないので、ここで具体的な写真の例を示すことができない。
光を捉える感覚については、また別に思うところがある。
数年前に故郷に戻ってきた頃から、夜の街の明かりをひどく美しく感じるようになった。大通りの風景、車のヘッドライト、高層建築、集合住宅の非常階段の灯火、飲み屋の店先の明かり。以前はそうした光がこんなにまばゆく、美しく見えると感じたことはなかった。
なぜなのかはわからない。時系列からいって、写真を始めたせいではない。戻ってくる半年ほど前に大病をしたのはいくらか関係があるかもしれない。精密検査では視神経に異常が見られたそうだが、しかし当時ですら日常的には何ら差支えがなかった。眼鏡を変えたせいかとも思ったが、古い眼鏡に戻しても変わらない。地域の違い、あるいは数年の違いで急に照明器具の状況が変わったとも思えない。以前いた東京の空気が常々濁っていたかと考えてみて、大阪の都市部なのでさして変わるとも思えず、かくして理由はよくわからない。
似たような話にひとつだけ心当たりがある。小説家の中島らもが『アマニタ・パンセリナ』の中で書いていたペヨーテの話だ。ペヨーテは幻覚成分を含むサボテンの一種で、氏がこれを摂取した時の体験談が綴られている。
これは光そのものの話ではないし、わたしには幻覚サボテンを摂取した経験はないけれど、どこか相通じるものはある。何かの拍子に色彩やその根源である光に対する感性が変化する、ということはあるのかもしれない。
この本は光の問題や写真を始めるよりもずっと前に読んだものだが、付記の一文は深く心に残った。わたしが冒頭述べたのは、遠くこの付記を受けてのことでもある。
そうして、夜の光を美しいと思う。だから時折、夜の写真を撮る。
夜の写真を撮るのは難しい。最近ようやくマニュアルで調整しながら撮る要領をつかんだが、現像などはいまだ手探りで迷うところがある。モニタによる見え方の違いに困惑したこともあったし、こうしてnoteに貼ってみると白背景のせいで暗部が見えなくなることに気づいたりもする。難儀なものだ。
他にいくらか撮り溜めたものもあって、その話はまた今度。