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photo#5 : 2024、撮った写真、思うこと

 年が暮れようとしている。
 大掃除ついでというわけでもないが、データのバックアップを取るなどする。2024年のフォルダにはRAW画像が7705枚あった。2023年はJPGで7000枚弱だったから、一割増しといったところか。これはすでに整理済みの数で、ファイル名の連番によると単純に撮った枚数は1万6千を超えていたようだ。
 べつに数が多ければいいなどということは微塵もない。山野の植物を記録し調べるために撮ったものが多く、大部分は人に見せるようなものではない(それをRAWで置いておくのかといった問題はある)。ただ、それだけのものごとを目の前に認める程度に歩き回ったことはたしかで、そこから学んだこともかつてなく多かった。そういう意味で、なかなかよくやったように思う。もっとできることはあったはずだろうとはいえ。

ショウジョウバカマ
ヤマシャクヤク

 六月に隣県へと転居した。
 春からは山歩きと並行して都市風景を撮るなどしていたが(過去記事を参照)、以後ずいぶん気軽に野山に入れる環境になった。これまでこの辺りの山を歩いたことはほとんどなかったのもあって、歩くたびに見慣れないものを見る。面白いのだが自分があまりに無知であるなと思うことしきりで、ようやく樹木の同定にまじめに取り組む覚悟を決めた。何だかよくわからない枝葉を撮ってきては調べて悩むのだけど、ひとつひとつのものを理解していくのはとても楽しい。地図を眺めてはまだ歩いていないルートがいくつもあるなと思い、県レベルではまた植生が異なる地域がいくつもあると聞いて頭を抱える。

カラスザンショウ
エゾアブラガヤ

 三月には奄美大島、十月には道東を訪れた。いずれも目にするすべてが新鮮だった。奄美は忙しく駆け回りすぎたので、またぜひゆっくりと訪れたい。行ってみたい場所、理解すべきものは国内だけでも無数にあり、世界となるとあまりにも広大で手に負えない。

ソテツ
エゾトリカブト

 写真を撮る、ということについてずっと考えている。
 それは、わたしたちが物理世界と向き合うひとつの方法だといえる。自動撮影などの特殊な方法を除いて、わたしたちは自分が出会ったものごとしか写真に納めることはできない。どこか遠くに行って、何か変わったものを見、撮影して帰ってくる。あるいは何気ない日々の街角で、誰も気に留めない何かや、過ぎ去る一瞬を捉えて帰ってくる。
 そして、それを繰り返す。自分が求める何かと出会うためにどこかへ行き、自分なりの記録を残し続けること。それをする価値があると信じること。いま目の前にある光景から、より本質に近い像を捉えようとすること。それはただ何も考えずにシャッターを押せばいいというものではない。
 わたしがなぜ写真を撮るのかといえば、ごく単純には植物が好きだからだ。ある風景に立ったとき、そこにあるすべての植物種を見分けたいと思う。そしてその合間に生きる昆虫や魚や菌類を見分け、それらの関わりを知りたいとも思う。ひとの行為がそれらに及ぼす因果を知りたいとも思う。風に乗る塵のような一億の種子のひとつひとつがどこに落ち、どのように芽生え、育ち、あるいは枯れてゆくのかを知りたいと思い、それはおそらく人のなせる業ではない。何にせよ、何かを知ろうと思うなら写真くらい残しておく必要はある。

ハナガサイグチ
アカハナカミキリ

 一方でこの感情、この面白さをどうすれば人に伝えることができるのだろうとも考える。まだまだ写真や植物について学ぶべきことはあり、しかしそれだけで充分であるようにも思えない。
 そしてまた、生き物の記録を残しておかなければならないとも思う。昔はこのあたりの山肌を一面に染めるほどたくさん咲いていて、なんて話は、ものの本を読めばいくらでも出てくる。そうしたものを読むたび、ならばどうして写真だけでも残しておいてくれなかったのだというやるせなさを抱く。漠然とした恨みと言ってもいい。そしていまやもう、開発によらずともいつ目の前にある環境が失われるかわからない時代となった。だから、せめて自分の目の前にあったものは記録しておきたいし、近隣で保全活動などあれば手を貸せないかと思ってもいる。

湿地にて、ハラビロトンボ、ナガボノワレモコウ
草地に刈り残されたウツボグサ

 生物の保全に携わっている人々はもちろんいて、Xなどネット上で盛んに発信している方も存在する。しかし生物多様性ということが日本でも言われて30年近くになるらしいというのに、未だ世間に広く理解されている気がしない。教育や啓蒙の問題であるのかもしれず、あるいはこれもいわゆる社会の分断の表れなのかもしれない。
 生物の世界というのは、言ってしまえば人間社会の外側に位置する。その境界はあいまいで複雑に入り組んでいるが、大都市のような人間社会の内側にいると、その距離の遠さによって生物の世界やその重要性は認識から外れてしまう。わたしはメタバースで六年ほど遊んでいるが、ユーザー数が増加する一方、ああした仮想空間は根底的にひとが持ち込んだ概念しか存在せず、都市以上に生き物の話からは遠い場所であるようにも感じる。のだが、機会を頂いて話をしたところ出入自由の気軽さもあってか、意外と多くの方が来て下さったりもした。むしろ一番遠いところに直接話を持ち込む、というのもありなのかもしれない。

 写真に話を戻すなら、人間もまた生物である以上、そうした分断を貫いて届く像というのがあるのかもしれない。繰り言を垂れるくらいなら少しでも良い写真を撮って、しかるべきところに出してみるべきなのだろう。それは公な記録として残ることにもつながる。

淀川
淀川のヌートリア

 そんなわけで、来年も写真を撮り続けることになるのだろう。
 が、いろいろやりたいことはある。写真集をもっと見てみようと思って果たせなかったので探したい。レンズ等の表現についてももっと柔軟に考えるべきだとごく最近思いつつある。
 植物についてもっと深く学びたい。独力では限界もあり、今年はようやく重い腰を上げて学会にひとつだけ入ったが、やはり得るものはあった。学会や研究会などいくつか心当たりはあるので重ねて検討したい。生物分類技能検定2級植物とビオトープ管理士は取っておきたい。前者は過去問を解いてみるととても面白いものでもある。
 ほかにもすべきことはいろいろあるのだけど、趣味についてはまあそんなところ。趣味って何だろう、ってちょっと思ったりもしながら。

 それでは皆様、よいお年を。

冬空、ムクドリ

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