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植物、ヒト、世界

 植物は光を求める。すべての植物が強い直射日光を求めるわけではない。しかし光は必要で、それは人間にとっても同じことだ。新しい部屋は南向きで、明るく開けた空がよく見える。
 東京の北向きの狭い部屋で暮らしていた頃、冬になるとよく漠然と憂鬱な気分になった。日照不足だったのだろう。ベランダや窓辺に置かれた植物の多くはさほど陽を必要としないものだったが、いくつかは光の差す方へと身をよじるようにして伸びていた。
 新しい環境は風当たりが強いものの、日照は申し分ない。春のあたたかな陽をいっぱいに浴びてThelymitra nudaの青い花が開く。陽がかげれば閉じてしまう。繊細だが本当に美しい花だ。いつか手掛けたいと思っていたがようやく叶った。かといって手放しで喜べるわけでもなく、やがて来る夏の強すぎる日差しをどう遮るのか、また頭を悩ませることになる。

 わたしのtwitterアカウントのメディア欄にはいつしか植物の写真ばかりが並んでいた。自宅の植物だけでなく雑草やら山の植物やらで、ともすれば一面緑の藪と化している。ちょっと極端ではあるが、かといって今に始まったことでもない。
 なぜそんなに植物が好きなんですか、と問われて、しかし答えあぐねてしまう。好きといえば好きなのだが、すでに好きとかどうとかいう問題ではないような気がする。それは趣味であると同時に世界を見るための視座の一部になっていて、しかしそのことを説明するのがとても難しい。
 野外にいる生物を扱っている人々はときどき、世界の解像度についての話をする。生き物の名前とかたちをひとつ知り、見分けることができるようになるたびに世界の解像度は上がっていく。ただ何かのサカナやトリやクサに過ぎなかったものが、実体を得て細分化されていく。小川を泳ぐ魚の群れが、あるいは道端に生えている雑草に過ぎなかったものが名前を得て、いくつもの種の集まりとしてひとつひとつ見定められるようになる。そうやって認識される世界の像はより精細なものへと書き換えられていく。
 生物の分類は分類学のシステムに支えられているが、分類という行為そのものはヒトのもつ本能と言ってもいい。食べられるものと食べられないもの、無害なものと有害なものを見分けることから世界の認識は始まる。分類行為は世界にあるものを識別し、細分化し、体系へと編み上げる。生物の分類だけでない。スーパーマーケットや図書館の棚にもモノの分類はある。わたしたちはそうしたさまざまな分類体系の中で生きていて、より細かな違いを見分けることによって少しずつ世界の深みへと降りていく。

 何の話をしていたのか忘れてしまった。
 ああ、なぜ植物を扱っているのかという話だった。分類と世界の解像度の問題というのは、主に野山で植物を見るときに関わってくるものであって、趣味的に植物を栽培する理由にはあまりならない。そのいずれにも関わるような立場にいると、それぞれが影響しあって説明がややこしくなってしまう。栽培についての話をしてから、もう一度ここに戻ってくるのがいいのかもしれない。きちんと帰ってこれるのかわからないけれど。

 遠く、最も古い記憶から語り起こしてみよう。
 と言ってみたところで、記憶というのは曖昧なものだ。それが本当に最古なのか、あるいは本当にあったことなのかすらはっきりしない。ともあれ、わたしはアパートの隣の部屋の前に山椒の鉢植えが置かれていたことを覚えている。あるいは、階段から見下したブロック塀の上をアゲハチョウの幼虫が這っていたことを覚えている。山椒を食べていたのかどうかはよくわからない。あるいは、そのことが後のわたしと植物や昆虫との関わりを運命付けたのかも定かではない。隣人のことは覚えておらず、ただ植物が好きな人であったと聞いている。父が譲り受けた四国剣山系の産であるというフウランは、数十年を経て今もわたしの手元にある。

 花に関する最古の記憶というなら、それはエビネのことになる。
 アパートから引っ越した先のベランダで、多数のエビネが咲いていた。親戚から譲り受けたものであったという。赤褐色の弁に白舌、あるいは桃舌のジエビネ。鮮やかな黄色のキエビネ。両者の交雑種であるタカネは赤褐色の弁に黄色の舌。ジエビネのうち、緑弁白舌の花を咲かせるものはヤブエビネとも呼ばれる。やさしく穏やかな色彩だが、甘い香りもまたやさしい。わたしが一番気に入っていたのはこれだった。三歳くらいの頃だと思う。
 特にタカネは強健で、一時は始末に困るほどよく増えていた。それもだんだんと減って、わたしが大人になる頃にはすべて失われてしまった。ウイルス病だったのではないかという。

 それから長い歳月が過ぎた。わたしの部屋の窓辺には小さな植物たちがひしめいている。そのほとんどはエビネと同じラン科植物で、多くは強い光を嫌い、空の明かりを受けてゆっくりと育つ。
 植物と共に育ち、図鑑や書籍を読みあさり、植物について学んだ。生業とはならなかった。家を出る時、何かないと寂しい気がして、Paphiopedilum wardiiの分け株をひとつだけ持ち出した。誰もが知るように植物は自ら成長し、また自然と増えるものである。やがて5年が過ぎる頃には50種類を超える植物が部屋にあふれていた。増えるからといって種類は勝手に増えないだろうという意見はもっともだが、しかし実際には正しくない。植物は増える。これは植物を育てることを趣味とする人ならば誰もが知るところである。

 趣味的な植物栽培と一口に言ってもさまざまなカテゴリがある。食用か観賞用かというのがまずひとつ。観賞用でも花卉・観葉・食虫・多肉などに分かれる。そして花卉の中でもバラやアサガオやランといったカテゴリがあり、ランの中でも洋ランや東洋ラン、その他のランといったさらに下位のカテゴリがある。洋ランの中にもカトレアやデンドロビウム、パフィオペディルム、ファレノプシスといった属レベルのカテゴリがあり、さらにその中で種レベルのカテゴリもある。各人が栽培の対象として選択するカテゴリはひとつとは限らず、またレベルも自由であって、選択によって生じる組み合わせは無数にある。
 植物と関わる趣味にもいろいろあって、別に栽培することが唯一というわけではない。山野や植物園で観る(あるいは撮る)対象とする立場、木工やフラワーアレンジメントなどの素材とする立場もある。
 栽培を手掛けるうちに、その植物の自生地を見たくなって登山するというような、栽培する立場と観る立場の組み合わせもありうる。わたしの場合は植物栽培と山歩きが別個に始まり合流した。ランや山野草など園芸的に扱われる植物への興味から始まって、路傍や山野の植物に深い関心を抱くようになったが、山での歩みはそのためにきわめて遅くなった。

 栽培趣味も高じれば、育種や研究の領域へと進むこともある。目的意識の特にない通常の個人的な栽培と育種の中間あたりには、愛好団体に参加したり展示会での受賞を目指すような立場がある。
 わたしはようやく枯らさず維持する程度の個人的な栽培をしているに過ぎない。扱うのはほとんどがランだが、内訳はパフィオやジュエルオーキッド、寒蘭、フウラン、エビネやその他、かなり雑多でまとまりがない。スミレなども少しだけある。
 うまく育つものもあれば、そうでないものもある。エビネは初心者向けのように言われることもあるけれど、生育はあまり安定しない。そもそも地生蘭の栽培はベランダ環境では難しいとする意見もある。それでも何とか少しは咲いて、いまキエビネが華やかに香っている。

 生物を相手とした行為であるという一点において、植物栽培と魚釣りは共通している。どちらも生物の習性やその場の環境を読み取って仕掛けを講じ、適宜対応することによって目的を達する。結果が生殺どちらであるかは異なり、いずれにせよ生物の側としては命をかけることになる。
 対象魚や仕掛けの種類はあまたあり、そうした釣りの面白さの評価としてゲーム性という言葉が使われることがある。ニュアンスのやや不明確な言葉ではあるが、ゲーム的な面白さがそこには認められるからだろう。
 知人曰く、チヌ釣りは他の釣りに比べて考える要素が圧倒的に多いのだという。変数の多いゲームは複雑で手強い。それぞれの要素を見定めて調整し、影響の小さな要素はざっくり切り捨てる。かと思うと忘れた頃に捨てた要素が効いてくる。
 植物栽培をゲームと見なす言説はあまり聞かれないが、やはりそうした側面はある。水や光、養分などの要素を管理し、相手の反応を読み取り、日々少しずつ手を指し進める。これは釣りのように動的なゲームではなく、むしろ盤上のゲームに近い。
 あるいは異なる見方もある。例えば、高山や高緯度地域の植物は暑さを嫌い、都市環境で過酷な夏の猛暑をいかにして乗り切るかは大きな問題である。何年も試行錯誤してパターンを構築し、可能な限りダメージを回避しながら成長量を稼ぐ。そうやって生存開花させ、あるいは展示会で受賞するような大株に仕立てるのは、高難易度のアーケードゲームを何周もノーミスクリアするのに似ている。
 あまりこのような考え方がされないのは、プレイタイムが長すぎることが一因なのかもしれない。1ゲームの期間は通常1年だから、人間には100回のゲームを経験することさえ困難だ。しかしその緩慢さゆえ、並行して複数の盤面を指すことはできる。だからこそ手元の植物は増えていく。

 ゲーム性の有無は措くとしても、生物と腰を据えて付き合うことには特有の面白さがある。それは植物でも魚類でも、それ以外でも同じだろう。日々成長し、ほんのひととき美しい姿を見せ、あるいはときに思いもよらないふるまいを示す。些細な変化の中に生物の不可思議が見え隠れする。
 なぜそのようにして在るのかと思うとき、進化という言葉の影が遠くで揺れる。無目的でランダムな突然変異のプロセスから、長い長い時間をかけて多様な生物が生まれる。その成果のひとかけが、いまも窓辺で陽を浴びている。あるいは、路傍でさりげなく小さな花を咲かせていることに気付く。あるいは小さな甲虫のかたちをして、今まさに植え込みの葉に虫食いをつくっている。ふむ、あまりお見かけしない顔ですがどなたでしょう、お食事中ちょっと失礼……。

 新しい仕事場には、見慣れない観葉植物が置かれていた。なかなかに大柄で立派だ。丈1メートルほどはある。左右へ長い葉柄がゆるやかなカーブを描き、その先に濃緑色の大きな葉をつける。バナナの茎を寸詰まりにしたような趣がいくらかある。窓辺から遠い電灯の下でも、くるくると筒状に巻いた新しい葉を日々着実に伸ばしている。少し調べてみて、どうやらオーガスタであるとわかった。
 オーガスタというのは園芸上での名前であって、学名で言えばStrelitzia nicolai。ストレリチアだからゴクラクチョウカ科ゴクラクチョウカ属である。そういえば以前住んでいた近所にゴクラクチョウカを咲かせている家があった。なるほど葉姿はちょっと似ている。
 一度覚えると、案外あちこちで同じ顔に出くわす。ショッピングセンターやホテルのエスカレータ周辺によく生えている。無論自ら芽生えるわけではなく、おそらく耐陰性やサイズ感によってそのあたりに配されている。元々は南アフリカやモザンビークあたりの海岸林に生えていたというから、ずいぶんと暮らし向きの変わったものだ。
 屋内の観葉植物だけでなく、植え込みや生け垣、街路樹、公園樹など、人為的に街中に配される植物も実にさまざまだ。街路樹は地域によって変わる。東京ではクスノキやハナミズキ、アオギリなどをよく見かけるが、有楽町の高架沿いにはベニバナトチノキが咲いていた。山手線からでもよく見える。大阪は東京とさほど変わらないが、シャリンバイは多いように思うし、局所的にはモミジバフウやナンキンハゼを見た記憶もある。札幌では雪の中ナナカマドが赤い実をつけていた。小笠原諸島父島ではモモタマナの独特の枝ぶりが印象的だった。先日訪れた三島駅前のバスターミナルには多数のムベがつるを這わせていて、ちょっと珍しかった。
 そうした植物の選択が単に気候や乾燥、排気ガス耐性などの実用的な性質によるものなのか、歴史や文化によるものなのか、あるいはそれ以外の意図によるものなのか、多くの場合ははっきりしない。人為か否かさえ判断できない場合もある。いずれにしても時折、普段見かけないものや思いがけないものに出会って、街角で足を止めて考えてしまう。どうしてこれがここにあるのだろう?

 ヒトはあらゆるものを分類し、分類によって認識される世界を、分類に基づいて組み立てられた社会を生きる。しかし個々人の分類の認識はさまざまだ。植物の種類は無数に存在するが、興味のない人はほとんど知らない。一般的な認識の範疇にあるのは主だった野菜や花くらいのものだろう。
 つい最近、スミレを知らない人は意外と多いようだと気付いた。別にスミレや桜を知らなくても生きてはいけるが、知っていれば時には多少の慰みにはなる。一方でどこかには生物を学術的に分類する人や、分類に基づいて研究や利用をする人がいる。
 分類学は規約に基づいて種を記載、つまり定義し、世界共通の名前である学名を与える。外国産など和名がない生物は、流通上の通称などで扱われる場合もあるが、そのまま学名で扱われることが多い。だから外国産の生物を扱っていると、やがて学名と分類学のシステムがうっすらと見えてくる。遠い過去、18世紀半ばに博物学者カール・フォン・リンネが標準化した学名のシステムは、幾度かの規約改定を経て今なお健在である。
 リンネは自ら多くの生物を記載したが、しかし友人への書簡にこう記したという。

私は死ぬまで研究し続けなければならないのだろうか? それでもこの世界を見知ることはできないのか? それで私は一体何を得られるというのだろうか?

Judith E. Winston, 馬渡俊輔・柁原宏訳. 種を記載する. 新井書院, 2008, p.19.

 それから200年以上が過ぎた。
 新しい種の記載、命名は今も行われ続けている。わたしたちにこの世界を知り尽くすことはできないのかもしれない。ただでさえ一人の人間に認識可能な世界はあまりにも小さく、荒いものでしかないというのに。

 見方を変えよう。
 世界には無数のオブジェクト、あるいはモノが存在する。分類とはオブジェクトの定義であり、名前と特徴の記述である。生物だけでなく、あらゆるものが世界にはある。鉱物、大気や水やその他の物質、天体、車や建築、わたしたちの身の回りにある種々雑多な日用品や人工物。あまりにも微小で認識が難しいものもさまざまに存在する。
 世界という空間の中で、すべてのオブジェクトは相互に作用しあっている。そこに生物や人工物の区別はない。ただ性質が違い、ゆえに作用の仕方が異なるだけだ。
 この空間から、「植物」のような単一の属性のオブジェクトだけを取り出せば、それらに共通する構造を理解することは容易になる。しかし世界そのものを真に理解しようとするなら、必要なのはあらゆるオブジェクトそれぞれに対する理解であり、それらすべての間に働く相互作用の理解である。果たしてそれが可能であるのかは別として。

 わたしは世界を理解したいのだと思う。
 いま、植物という多様きわまる無数のオブジェクトを眺めている。あるいは、植物という長く慣れ親しんだオブジェクトのかたわらに立って世界を眺めている。必要なのはもっと深く知ることであり、それ以外のすべてを知ることでもある。植物と動物を分け隔てる必要はない。昆虫も菌類も他の生物も、陸も海も分け隔てる必要はない。すべてはどこかで相互作用している。
 ある晴れた午後、峠に車を止めて、脇の小道から山頂へと上がっていく。周囲は一面笹に覆われており、その上に何種類かの低木が茂る。アセビの花がまだ残っている。サラサドウダンのつぼみが色付きはじめている。遠く眼下に広がる山並みの向こう、海から吹きつける風が木々の葉を強く揺らす。木々が高く伸びないのはこの風のせいだろうと感じる。この辺りはかつてブナ林だったが、野焼きや伐採によってブナが消え、風のせいもあって高木層が未だに回復しないのだと後で知った。猛禽の影が風にゆらりと乗って、谷間へ滑り落ちていく。すべてが相互に作用している。
 書物を読むように、ひとつの景色の中に無数の物語を読み解くことができたらどんなに素晴らしいだろう。ここにあるのは木々と風の対立だけではない。異なる季節に咲く花があり、広大な笹原に潜むものたちが無数にあり、やがて猛禽に至るまでの食物連鎖がある。森であった過去があり、現在から導き出せる未来があるだろう。わたしに読み取れるのはほんのひと握りの植物に過ぎない。
 あらゆる生物が美しさを秘めている。生物を織りなす化学も物理もまた奥深い。人の営みが環境を変え、予期せぬ結果をもたらす。ミクロからマクロに至るまですべてはなめらかにつながっていて、そこに本来、分類や分野の境界線はない。それでもあえて線を引くのは、世界があまりに複雑で、そのままではただ立ちすくむしかないからだ。本当はそんな線はどこにもなく、いつでもどこへでも自在に歩むことができるのだろう。
 しかし、それは夢想のようなものだ。さしあたりわたしにできるのは、目に付くものをひとつひとつ読み解き、世界の解像度を上げていくことにでしかない。身近なものたちと戯れながら。

 水やりの時間だ。

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