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photo#01 : まずレンズを破壊します

 写真を撮っている。主に植物の。
 始めてから二年に満たない。あるいはもう二年近くになる。2022年の六月初め、北の最果て、礼文島に咲くレブンアツモリソウのそばで手を滑らせて、レンズを壊した。それが始まりということになる。
 ちょっと奇妙に聞こえるかもしれない。レンズを扱っていたのなら、その時すでに写真を撮っていたのだろうということには普通なる。動画というのもなくはない。しかしそういうわけではなくて、実際写真を撮ってはいた。その時手にしていたのはSony NEX-5T、2013年製とあってだいぶ古いが、れっきとしたレンズ交換式のミラーレスカメラだった。
 何かの道具をとりあえずは使えるのと、機能や使い方をきちんと理解して使っているのはぜんぜん別のことだ。いまどき撮るだけならスマートフォンをちょっと触れば撮れるのが写真であって、ミラーレスカメラでもオート設定にしておけばそれなりに撮れる。絞り優先モードくらい覚えておけばたまにはそれらしいものが撮れたりもする。ほとんど使っていなかったカメラを引っ張り出し、山歩きを再開してから約一年、この時まではずっとそれでやっていたのだった。
 壊してしまったものは仕方ない。替えが要るとなって、ようやくレンズのことを少しは調べてみようということになった。図書館で四、五冊借りて目を通したところで、よくもまあみんなこんな複雑怪奇なものを扱っているなとしみじみと思ったし、今でも変わらずそう思っている。
 それでも一応の目途は立った。記録では六月二十二日に SIGMA 18-50mm F2.8 DC DN が届いている。あるいは、一度終わってようやくそこから始まったのだとも言える。

 撮っているうち、いろいろと思うことがある。
 歴二年にも満たない口で言えることはたかが知れていて、人に伝える価値のある技術論や蘊蓄はここにはない。撮った写真がいくらかと、浮かんでは消える由無し事がいくらかあったりなかったりする。そうした由無し事を、少しは書き留めておこうと思ったのだった。美しい瞬間がなすすべもなく過ぎ去るように、あざやかな雲間の光がうつろい翳るように、あらゆる思考が日々に押し流されてゆく。それをあえて留めるのは手間のかかることだ。写真を撮るように思考を写し取れたらよいのにとさえ思う。いや、よくはない、ある一瞬に自分が何を考えているかなんてとてもわかったものではないのだし。
 文章を書くことは、どこか像を彫ることに似ているように思う。槌と鑿を手に取って、この辺かなというところに、こんこんこんと打っていく。無心に打っては手を止めて、眺めてみて首を傾げる。ああ今のなし、と思ったらこっそり戻す。本当の彫りものなら戻せないし、本当に彫りものをする趣味があるわけではないけれど、なんだかそういう印象がある。
 だけど、写真を撮るというのはそういう種類の物事ではない。そこになにものかが在り、撮れば写真として残る。多くの場合なにものかはすでにして在るのであって、わたしたちがなにかをつくるわけではない。わたしたちは機材を片手に、そこに在る風景や、人々や、できごとの間を歩き、記録に留めて帰ってくる。それは世界と向き合う行為であって、自分の内側にある言葉や思考に向き合うこととは真逆を向いている。
 だから撮ることと書くことは、車輪の両輪のようなものなのかもしれない。写真を撮る人は、気の赴くままに自分が美しいと思う像だけを追いかけていると、やがてなりふり構わず世界の美しさの表層をべろべろと舐め回しては徘徊するおばけみたいなものになってしまうことがある。わたしはそうはなりたくなくて、ときどき立ち止まってなにごとか考え、言葉をあれこれ並べてみる。これはそういう種類の文章になるのだろうと思う。

冒頭の写真:Paphiopedilum Rydeen
植物園にて。パフィオはラン科でも有数の奇妙な、しかし端正な花を咲かせる。分布の中心は東南アジアであり日本には自生しないにもかかわらず、根強い愛好家が存在する。それはこうした植物が、普段わたしたちがいる場所から遠く隔たったところにも異質な美や洗練があることを教えてくれるからなのだろう。

※原文は2024年4月頃に記述したため、本文中の歳月はこれに基づく。

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