葛藤にさよならを 既婚バイの覚え書き
noteを始めて約半年、これまでいろいろなことを考えてきました。
人生について、好きな映画や小説について、メンタル疾患について。
そして、自分のセクシャリティについて。
恐らく、過去の記事で取り上げたテーマのうち、最も多いのが、バイセクシャルである僕の性的指向に関すること。
多分、最初の記事から順に辿っていくと、この半年間の僕の思考の変遷が分かるはずです。
ブレブレなのが確実なので、あまり以前の記事は読まないようにしていますが…苦笑
けれど、最近は休職中ということもあってか、主にメンタルヘルス関係の記事が中心。というか、自分のセクシャリティについて悩むこと自体が減りました。
むしろ、「バイセクシャルである自分」というのがデフォルトな状態で、そんな自分自身に対して違和感を覚えること自体が圧倒的に少なくなった。
思うに、これまでの自分の人生は、主語が「自分」でなく「世界」だったのだと思います。
この場合の「世界」というのは、ヘテロセクシャルの方がマジョリティーを占める世の中のこと。
僕はこれまで、そんな「世界」を通して自分を見ていた。きっとそれが、生きづらさや自分への違和感に繋がっていたのです。
しかし、noteで自分自身を分析し、自己開示し、現実でも何度かのカミングアウトを行う中で、この主語が、いつの間にか「世界」から「自分」に切り替わっていました。
恐らく、僕が自分のセクシャリティに違和感を覚えなくなったのは、この変化の結果だと思います。
当たり前の話ですが、この世で最強のものさしは、自分自身です。
「自分」を主語にして世界を測量すると、また別の扉が開けます。
もちろん、自分に対する抑圧が完全になくなったわけではなく、また、バイセクシャルである自分自身の「性」を消化しきれたわけではないのですが、以前のようにヒリヒリと痛む感じがなくなった。
それはつまり、僕が「僕」をフラットに測ることができるようになったからなのではないかと、自分としては解釈しています。
そういえば、初めてバイセクシャルである自分の抱える苦悩について書いた記事のタイトルが、「僕が僕になる日まで」。
上記の解釈が間違っていないとすれば、このタイトル通り、僕は自分の思う「僕」と、ようやく同化し始めたのかもしれません。
そして、「世界」の作った型に、無理矢理自分を当てはめようとする行為をやめた。
これは自戒を込めて書くのですが、「世界」に自分を合わせようとするのは、率直に言って愚行です。
ストレートの方も含め、どんなセクシャリティを持っていても、ありのままの自分が、まるでパズルのピースのように世界にぴったりと当てはまる方なんていないはず。
フラットな自分は、きっとどこもかしこもデコボコしている。
でも、その凹凸こそが、その人それぞれの魅力なのです。
僕のこれからのテーマは、「自分」の目を通して「世界」を見ること。
映画『もののけ姫』の言葉を借りれば、まさに「曇りなき眼で」(アシタカは僕の憧れの男性です)。
そうして少しずつ、世の中に蔓延る不要な偏見や、不条理な差別をなくし、自分や、自分と同じように生きづらさを感じている方々が「楽」になるような風を起こしていきたい。
noteで自分の思考の整理をしたり、アウトプットをするのは、本当にささやかですがその一環になるはずだと、僕は信じています(もちろん、他の方の記事を読んで、新たな気づきを得ることも)。
自分だけでなく、社会という地面がフラットになれば、その地平線からは遥か遠くまで気持ちの良い景色が見通せるはず。
アシタカのように壮大な冒険になりそうですが、葛藤にさよならを告げた後も、まだまだ旅は続きます。
この世界が、誰にとっても居心地の良い「居場所」になる日まで。