映画「楽園」
映画「楽園」観てきました。
一言で言うと、とても重い。
救いはあるんだけど、やっぱり後味悪い・・・そんな作品でした。
限界集落、村人たちによる偏見、差別、排他主義、村八分
村人たちの仕打ちにより、犯罪に追い込まれる人たち。
物語は犯罪に追い込まれる人たちを中心に描かれるので、彼らがその道を辿ることしかできなかったことに、なんとも言えないやり切れなさや憤りを感じるのだけど
じゃあ私は「村人A」にならないと言い切れるのか?と問われると、言い切れないな…と思う。
村以外の世界をほとんど知らずに育ったら、外から来た人なんて得体が知れないし、まして外国人だったら異端の極みかもしれない。
村人がいくら底意地悪くて偏見だらけで嫌な奴であっても、村人のいうデマを信じるのかもしれない。よそ者がどんな善人であっても、彼らの真実の話に耳を傾けないかもしれない。
私は、私が常に善人であると言い切ることはできない。周りの村人が言うことに疑問を抱いたとしても、自分の正義を貫けるほど、強くいられる自信もない。
いじめの根幹は、不安なのだと思っている。
それぞれに不安を抱えているから、仲間を欲してつるむ。ターゲットを疎外して楽しむことで、仲間内の連帯感が生まれる。仲間内の結束が強まったと錯覚する。そして、自分が孤独じゃないことに安心する。
村人たちは、不安を抱えている。村を出ていく若者たち、村の高齢化、限界集落、村そのものがなくなってしまうのではないかという危機感。のどかで平和なはずの村に起きた、少女失踪事件。
私が村人の一人だったら、不安を解消するために、他の村人と結託して誰かを疎外して憂さを晴らすかもしれない。
そんなことばかり考えてしまう。
村から出ることに疑問を持つこともない豪士と、村に居続けることにこだわる善次郎。ふたりは村人に追い詰められ、破滅の道を辿る。
東京に出た紡は、村でのつらい出来事をすべて抱えて生きる覚悟をする。村以外の世界がとてつもなく大きいこと、村以外の場所に自分の楽園を持つことができることを、東京で暮らすことによって、比呂の言葉によって実感できたからかもしれない。
東京を知っていた、東京周辺に長年暮らしてきたはずの善次郎は破滅の道を辿ったわけで、必ずしも村の外の世界を知っているからといって楽園を見つけられるとは限らないのだけど…土地に縛られず、自分と大切な人と生きる場所が楽園なのかもしれない。
簡単に捨てられる人ばかりではないけれど、今いる場所、とりまく環境や人に縛られず、抱え込まず、手放すことができる人の方が、楽に生きられるのだろう。
世界は自分が想像するより広い。
今いる場所より、自分に合った環境は、いくらでもある。
そんなことを心の片隅で思いながら、今いる世界で頑張ってみる。
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