父の手紙➀数え年14歳から
「直木賞発表」という歌い文句に載せられて、私は雑誌『オール讀物』を買い求め、受賞作である小川哲の『地図と拳』を読みはじめた。
何の先入観もなしにその小説を読み出したのだが、その舞台が満州であったため、私は父のことを思い出した。
私の父は10代で満州へ行き、満鉄に勤めていた。ただ、詳しい話をきいたわけではない。
私の父は2015年に亡くなった。生まれは大正15年(1926年)である。
私が一人暮らしを始めたばかりの頃に父がくれた手紙が残っている。
その手紙をそのままここに掲載したい。
前略 今日はお前からの希望通り、私の数え年14歳(今の13歳)から今日迄を書いて見ることにします。
その前に母さんの病状を一寸知らせておきます。手術の経過は非常に良いのですが、何だか微熱が続いて食事がすすまない様で、そのことだけが心配ですが、当人は今月末のおばあさんの四十九日忌には4、5日の外泊を先生にお願いして帰る等、相変わらずのん気でいます。
私が九大病院に行く時は、宇美の叔父さんが必ず一緒に行ってくれますので助かります。お前からも礼状を出して下さい。
さて、私の話をすることにする。先づ私が南満州鉄道株式会社(満鉄)の大連機関区に入社する迄を書きます。
その前に少しだけ、昭和14年迄の父と私のことにふれてをきます。
私の生年月日は御承知の通り大正15年8月で、私は当時母が炭鉱の坑内仕事から帰ってくると私に乳房を喰わえさせてくれた事をいまだに覚えています。その時、ぷーんと炭塵のにおいがしていた事、母の肌のにおいと汗と炭塵の入り混じった出もしない乳首にすがりついた遠い想い出があります。
さて、愈々本題に入らう。
先づ、私の高等小学校中退から(高等科1年8月)。
理由は担当の先生の前で大喧嘩をして相手に傷を負わせてしまったからでしたが、先生は私を叱らなかった。それは相手が先に私を先生が居る目の前でなぐったのを知っていたからでした。
たまたまその時、大阪で町工場を開いていた遠い親戚の谷さんと言ふ人(その谷さんの奥さんが私の母方の大叔母に当る)が見習工(旋盤)を募集していたので、父にも協力してほしいと云ってきたのでした。
それで私は学校には行きたかったし、また自分で云ふのもなんだが何処の学校でも級で十番以内には常に入っていたから、大阪で昼は働いて夜学に行かせてくれるなら旋盤工になっても良いと想い、父に相談したのでした。谷さんもそれでいいとの事で、私は大阪に行く決心をしました。
然し、話は違いました。
それはその時代が許さなかったのでしたが。谷さんの製作所は軍艦の部品を作っている工場で、毎晩残業が続き、夜学など到底行かせてもらえなかったのでした。
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