私の祖母は歌人でした
こんにちは。しゃわです。
久しぶりに実家に帰ったら、祖母が自費制作した2冊の歌集が目に留まりました。ぺらぺらめくってみました。
そんなわけで、今日は、私の心にずっと残ってる、祖母のことを。
祖母と小1までの私
思えば、私はきょうだいのなかで、一番この祖母と過ごす時間が長かった。
両親が共働きだったから祖母に預けられていたのだけど、少し事情があって、他のきょうだいはもう一方の祖母宅によく預けられていたんだけど、私だけは3歳までこっちの祖母宅によく預けられてたから。
でも正直、祖母との思い出って少ないのだ。覚えていることは、2つくらいしかない。
1つは、教育に熱心な家だったから、この時から学習教室みたいなやつに通わせもらってたんだけど、祖母は私の送り迎えをいつもしてくれてたこと。
祖父も一緒に、「うさぎとかめ」の口笛を吹きながら、車で送ってくれてたなぁ。
その帰りに、ハローキティのポップコーンを買ってくれて。
たまーに、ショッピングモールで絵本も買ってくれてた。
家に絵本がまだ少し残っているから覚えてる、1冊300円くらいのやつ。
おむすびころりん、シンデレラ、赤いろうそくとにんぎょ、花さかじいさん。
いっぱいいっぱいあるな、思えば本好きな自分の一面を作ってくれたのは、この祖母のおかげかもしれない。
もう1つは、祖母も私もお菓子大好きで、いっぱいお菓子を食べさせてくれたこと。
アルファベットチョコレートが大好きだったんだ。
祖母も私も。
あれ、包装をねじって開けるのが楽しくなっちゃってたから、それもあって大量に食べていた。笑
なんでこれがインパクト強く残ってるかというと、これでろくに歯を磨いていなかったせいで、私の乳歯は味噌っ歯だったからでーすー!ww
(ちなみに、永久歯生えてからは必死に歯を磨いて今では「歯きれいだね」と言われる、がんばってよかった)
そんな、他愛もない、なんでもないような思い出だけど、それが日課だった、当たり前の一日。毎日。
幼稚園に入ってからは、家の近さの問題でもう片方の祖母宅に通っていたので、そのくらいしか思い出がパッと出てこない。
そこから小1までって言っても、たいした思い出が出てこない。まあ幼稚園、小学生とかなんて、そんなもんだよなぁ。
でも、それから15年たった今でも、もう祖母との思い出は更新されない。
今から15年前。小学1年生の、マラソン大会の日だった、11月18日。
私の姉の、誕生日でもあったから、よく覚えている。
祖母は、その日に、私が7歳の時に亡くなりました。
祖母が亡くなった日
マラソン大会、嫌いだったのに、しっかりと出させられて(泣)、それ終わったらすぐ早引きした。担任の先生が、ランドセルに荷物詰めといてくれて、走り終わったら、速攻帰された。
おばあちゃんち、小学生になってからはあまり来てなかったな。
畳の部屋の、ふすまの奥。
祖母は、綺麗になって寝てた。
お化粧していた。
厚化粧だから、似合ってないよ、って思った気がする。こどもだったから。
おばあちゃんにはもう会えないんだよ、と母に言われた。
「死んだら会えない」ということ、小1でもさすがに知っていた。
子どもながらに「もうお菓子が食べられないのか」とも思ったけど、やっぱりそれ以上に、「もう会えないのか」っていう寂しさがいっぱいあった。こみあげてきてた。
私は、こたつに頭を突っ込んでわんわん泣いた。
何も考えられなかったから、とりあえず泣くしかなかったんだと思う。
泣いた。すごく、泣いた。
それ以外、覚えてない。
次の日学校に行ったかどうかも、周りに誰がいたかも覚えてない。
祖母が亡くなってからの私は
祖母は、享年、68歳だった。
当時にしても、まだ68は若いうちに入ると思う。
私は、7歳だったから七五三のお祝いがあったはずだったけど、祖母の死を受けてできなくなった。喪が明けて落ち着いた3月にやった。
私のいとこは祖母が亡くなるすこし前に七五三のお祝いをしていたから、一緒の写真を撮れていた。
いとこの隣に祖母の姿がしっかりと映っている。写真が今も残っている。
でも、私の七五三は3月まで祝ってもらえなくて、しかも私の隣には祖母はいなくて、
なんで、こんな。
「なんで七五三、私はやらないの。」
11月も終わりの頃、怒った気がする。両親に。
喪中の意味を分かっていなかった。
「なんで○○は七五三の写真撮れたのに、私はおばあちゃんと撮れなかったの。もっと早くできなかったの。」
泣いて、そう言った気がする。両親に。
詰る相手が両親しかいなかった。
ただ、悲しんでも悲しんでも、結局は「もう祖母がいない」という現実だけしか残らなくて、次第に年を経て私も祖母の死に対して冷静に考えられるようになった。
運動会に、祖父が来ても、その横に祖母がいないのは当たり前だ。
「おばあちゃんち」と呼んでいたものが、「おじいちゃんち」になった。
それも当たり前。
自分が読書感想文で優秀作品に選ばれても、「がんばったね」とアルファベットチョコレートをくれる祖母はもういない。当たり前なのだ。
そういったことで、祖母がいない事実を受け止めると同時に、「もし祖母が生きていたら」も考えるようになった。
手紙を書いたこともあった。
自分が生きている証を、祖母に知ってもらいたかった。
小学校の頃、中学受験に失敗したこと、
吹奏楽部の部長になったこと、
生徒会に立候補して、当選したこと、
第一志望の高校に合格したこと。
こんな立派になったんだよと、知って欲しい。
やっぱりどうしようもないけど、おばあちゃんと遊びに行ったりしてる他の友達をうらやましく思っても、そこで終わりにして、
祖母が生きていたらなんて言ってくれるのかな、と、
あくまで前向きに捉えられるほどには、
私は大人になっていた。
そのくらいの、時かなぁ。
高校にあがるくらいの頃だった気がする。
私がその歌集に気付いたのは。
祖母の歌集
本棚に入っていた2冊の本、表紙はデコボコした紙に題名と作者名だけ載ってる。私の祖母の名前。バーコードもない。
めくって読んだら、歌集だった。
へー、スゴイ、おばあちゃんこんなシュミあったんだー。
くらいの、気持ち。
祖母が書いた短歌。
あっ、私のこと書いてある。
そう、一冊目の歌集、第一章は私の名前がタイトル。
575,77に、ちゃんとなってる。
なってないのもある。
そう思いながら、泣いた。
涙が止まらなかった。
まず、ちゃんと自分が短歌の意味を理解できている、それほど成長しているのに、祖母はもうこの世にいないという事実に。
そして、歌集につづられた歌から、私を愛おしんでくれていたことが伝わって、
嬉しくて、
嬉しくて。
歌1つ1つを読むと、当時の自分がフラッシュバックした。
自分ですら覚えていなった、当時の私が。
絵本を並べて寂しさをまぎらわし、残業の母を待つ私の姿。
小さな足で、足の大きな祖父のあとをついて回る私の姿。
ねぎぼうず畑にうずくまる私の姿。
確かにそこに私がいた印が、57577でつづられていた。
それと同時に、忘れていた祖母の姿かたちも、ありありと想起された。
私の家と、祖母の家と、二世帯分のコロッケを揚げる祖母の姿。
祖父の洗濯物をたたむ祖母の姿。
祖母が生きていた印も、確かに57577につづられていたのだ。
歌集の中には、私の知らない祖母の姿もあった。
いいことも悪いことも。
それは、まるで自分の知らないところで起こっていた問題の、答え合わせのような感じで、嬉しいような、悲しいような、戸惑うような気持ち。
歌につづられているそんなことがあったことすら、私は知らなかったのに。
祖父とラブラブな雰囲気が伝わるな。
幼稚園の園長先生をしてたのか。
え、30代の時に一回倒れてるの。
しかも祖母の死因は、そのときと同じ脳腫瘍だったの。
死んでしまったあの日、本当はスゴイ賞をもらって東京で表彰されるはずの日だったの。
温めたミルクを飲んだときに、膜が舌に残ってざらざらするような感覚。
温かいものに包まれて、それでキモチイイんだけど、何かまだ残っていて、消化しきれずにいて、それがモヤモヤする。
その「何か」は、私の中で消える気はしない。ごめん。
たぶん、その「何か」は私が祖母に会えないもどかしさだ。
私が死ぬまで祖母に会えないんだから、消えるわけがない。
せめて、ここに書かれている祖母を知ってから、別れの一言ぐらい、伝えたかった。
祖母はこんなにもたくさんの私の姿を、歌にして残しておいてくれた。
寒い日も暑い日も、祖母は私の世話を焼いてくれた。
トイレを出たらかならず手を洗うとか、そんな当たり前のことも、そういえば祖母が教えてくれた。
せめて、それを知って、ありがとう、と伝えたかった。
祖母は私の人間性を作ってくれた。
私とよく手をつないでくれた。人との距離が近い。
私は甘いものが好き。プリンとか、豆大福とか。祖母と同じで。
甘えん坊なところが祖母にそっくりだと祖父に言われたこともある。
せめて、それを知って、あなたみたいにチャーミングに育ったわよと、伝えたかった。
物心も何も、アルファベットチョコレートの味くらいしかちゃんと覚えていないような歳で、祖母とは永遠のお別れになってしまったんだから、そりゃもう一度、会ってお別れしたいに決まってるだろう。
そのくらいのわがまま、許してほしい。
理不尽にそんなことを想って、歌集を閉じても、もどかしさが結局心に残って残って、今も残っている。
私の祖母は、歌人でした
とはいえ、当たり前のように、日々はつづくわけで。
私は20歳も過ぎて、もうすぐ就職もする。
卒業、入学、入部、引退、合格、内定…
多くの節目を迎えると、私は祖母を思い出す。
辛いことも、楽しいことも、何か起きた時に、たまーに祖母は私の心に現れるのだ。
少し低くて、ハスキーな声で。
老眼鏡してる。
もじゃもじゃした髪で、
赤っぽい紫の服をよく着てるね。
おばあちゃんが心に浮かんで来たら、私はお話をするようにしている。心の中で。
あなたはそっちでもチョコレートが大好きなんだろうか。
私も好きだよ、チョコレート。
今コロナで大変なの、はやく旅行したいのよ、働きだす前に。
あ、そう、彼氏ができたよ。性格がおじいちゃんに似てる。
そうすると、目じりにしわを寄せて、祖母は笑ってくれる。
そしたら、また前向きな気持ちになれるんだ。
ふふ、ありがとう。私は元気です。
私は大好きな祖母に、今も支えられている。
それに、私は、最強のものを持っている。
祖母が、私に残してくれた歌がある。
いつでも、この歌が、自分を包み込んでくれるような気がする。
祖母は、いろんな形で私を支えてくれているのだ。
私の祖母は、歌人でした。
しがない趣味の範疇だけど。
それでも、私の心に愛をくれる、私が世界で一番大好きな歌人でした。
というわけで、非常に長い、ただの私の祖母についての語りでしたが、
ここまで読んでくださったみなさま、ありがとうございます。
読んでくださっているあなたにも、大切な方がいるでしょうか。
その人は、今身近にいらっしゃいますか。
私が思うのは、どこにいても、あなたのことを、見てくれていて、愛してくれる人は必ずいるということです。
そして、感謝の気持ちとか、憎しみとか、いろんな感情、あると思うんですけど、
届いていると思います。
良いのか悪いのか、わからないですが。
そして根拠はありません。笑
最後に、
祖母の歌集から、私のお気に入りをひとつ。
半分は残しておこう孫達にメロンを切りて夫と分け合う
それでは、今日はこの辺で。
しゃわ
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