道を尋ねられるしゃふしゃ〜第0印象について〜 ②
前回の続きです。
第0印象という概念の導入
相手から初めて認識されたときに相手に与える印象のことは、第一印象(ファーストインプレッション)と呼ばれる。
ただ、第一印象は数分から数時間の間、会話およびノンバーバルなコミュニケーションを通して形成されるものを指すのが普通である。
そこで、人物がパッと認識されたコンマ数秒間で作られる、一切のコミュニケーション無しに相手に与える印象のことを、第一印象の前に形成されるものとして、第0印象としておく。
第0印象はその定義上、極めて直感に基づいた簡素なものとなる。
人が人を見たときに最初のコンマ数秒で思うことなんて、強そう、ヤバそう、綺麗、誰かに似てる、とかそんなもんだと思う。
また、都心のように人が多いところにいるとき、人が道ゆくすべての通行人に第0印象を持つとは考えにくい。
たまにいる美人、長身、ガタイのいい人、酔っ払い、有名人などの外れ値に対して、第0印象が形成されるだけだ。
第0印象が形成されたとき、人はその相手のことを「人」として認識する。第0印象が形成されなかった時は、人はその相手のことを「人」として認識していない。(と言い切ったが、脳科学的に本当にそうなのかは知らない。今回は無視する)
このような時、人はその相手のことを「背景」として処理し、当面の意識の上から除外している。
道尋ね的声かけ〜第0印象によって阻まれる声かけ〜
さて、しゃふしゃが道を尋ねられる機会が多いのは、
道を尋ねてくる人から見たときに「道を聞けそうな人だ」という第0印象をしゃふしゃが持たれているからなのだろうか。
しゃふしゃは歩いている道の中で特別に目立っているわけでもないはずだ。
道を行く人からパッと見たときに「人」として認識しやすい相手は他にいくらでもいる。
それでは、
普通に道を歩く状況では第0印象を形成しないような相手に対して、
道に迷ってしまい誰かに尋ねたいという状況では、
もともと「人」として認識できていた対象を差し置いて、それよりもさらに強い「道を聞けそうな人だ」「優しそうな人だ」などの第0印象が形成されて、
その強い印象にもとづいて道を尋ねるための行動が誘起される、
ということがあるとでも言うのだろうか。
僕は全く違うと考えている。
反対に、第0印象が全く形成されなかった相手、つまり「背景」の一部に声をかけてみた、と言う方が正しいのではないかと考える。
多くの人は、公共の場では周りの環境、特に周りの人への影響が最小限にとどまるように振る舞う。
そのように振る舞った方が諸々のトラブルに巻き込まれにくいからだ。
トラブルとまではいかなくとも、自身が不必要に緊張を味わったり恥ずかしく気まずい思いをしたりするような「環境を崩す恥ずかしさ」を味わうことを、人々は避けようとする。
何か特別な事情があるときも同様に、周囲への影響を気にしながら振る舞う。
例えば、電車の中で自分の子供が泣き出してしまったときや、静寂な図書館で自分の携帯電話が大音量で鳴り出したときである。
周りを気遣っての振る舞いというよりは、自分自身が感じる恥ずかしさや気まずさとの折り合いをつけるための遠慮した振る舞いと言った方が正しいかもしれない。
いずれにしろ、自分自身の行動が周囲の環境・雰囲気を崩さないように、あるいは崩れたものをもとに戻すように、行動に取り掛かる。
人に迷惑をかけずに動くというのは、日本では幼い頃から教え込まれるこの社会のある種の規範である。
これを踏まえて以下のことを考える。
今ここに、道に迷って困ってしまった人がいる。
地図の読み方も分からずに途方にくれたこの困った人は、ある程度の恥ずかしさや気まずさを我慢して通行人に道を尋ねなければならない。
この時、すれ違った通行人から何かしらの第0印象を受けると、人は声かけをためってしまうと僕は考える。
なぜならば、何かしらの第0印象を受けてしまって相手を「人」であると認識してしまった以上、これから自分が行う声かけという行為は「人の迷惑」になるからである。
その人が美形だろうがブサイクだろうが、体格がどうだろうが、金髪だろうが、弓を持っていようが、なんの属性を持っているかは関係ない。
とにかく第0印象の強さ、「人」としての認識のされやすさだけがこのためらいを生む。
無意識に近いレベルまでに刷り込まれた「人の迷惑」「環境を崩す恥ずかしさ」が呼び起こされて、行為は中止される。
すれ違う人からの第0印象を受けず、声かけの決心を妨げる葛藤が無視できるほどであった際に、声かけは実行される。
この声かけの瞬間、声かけをされた側は「人」としての性質を全く持たない。その性質を全く捨象されたものとして、声をかけられる。
このような声かけは、ある状況に立ち合い、あるいはある状況に陥った人によって、極めて自然な行為として行われる。
それは、綺麗な田園風景に感動した人が立ち止まり、カメラを取り出して写真を撮るのと同じくらい自然な行為である。
写真を撮る人は遠方で農作業をする人のことなど気にも留めずに写真を撮る。
遠方のよく見えない人が写真に写り込んでしまおうが、「風景の写真を撮りたいから撮る」という自分の欲求を妨げるほどの倫理的葛藤は起こらないからである。
あるいはそれは、雨の日に屋内に入る人が、入り口近くで傘を振って水滴を落とすのと同じくらい自然な行為である。
傘を振る人は水滴が飛び散って濡れる野外の地面のことなど気にも留めずに傘を振る。
地面を気に留めるって何? 地面は「人」ですらないし、気を遣う意味が分からないよ? 葛藤なんか起こるわけなくない?
道尋ね的声かけをされてしまう人は、少なくとも声かけの瞬間においては、
撮影された情緒ある風景写真に意図せず収まってしまった農作業をする人であり、
傘からの水滴が降りかかってくる雨の日の建物入り口前の地面である。
極めて自然な行為の中で考慮されず消費される存在であり、文字通りの意味で全くの「背景」である。
道尋ね的声かけをされてしまう人を気に留めるって何? 道尋ね的声かけをされてしまう人は「人」ですらないし、気を遣う意味が分からないよ? 葛藤なんか起こるわけなくない? という具合である。
なお、この後道を教えるための会話などを通じて、道を尋ねられた人側の「人」の性質は回復されることもあるだろう。
親切に道を教えてくれた優しい人だと評価するか、応対の態度が悪く嫌な奴だと評価するかは分からないが、コミュニケーションを通して形成される印象である以上、これは第一印象である。
声かけが発生したその瞬間の対象の第0印象は永遠に捨て去られ、あるいは最初からそんなものは存在していない。
以上で取り上げたような、第0印象が強ければ強いほどためらわれる性質を持つ声かけを、「道尋ね的声かけ」と名付けておく。
(これと対比した「ナンパ的声かけ」をこの後の回で導入したい。適当に思いついた順に書いてるからとっ散らかってる。許してほしい)
言いたいことをまとめる。
道尋ね的声かけは第0印象が形成されなかった相手に対してなされる。
道尋ね的声かけの瞬間、この相手は「人」としての性質は全く持たず、ごく自然に消費される「背景」である。
第0印象は道尋ね的声かけをためらわせ、ためらいの度合いは第0印象の強さのみに依存する。
③に続きます。